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あいまいで、はんぱな心と暮らし

世の中は、黒か白かはっきりさせられないことが多いということは、75年も生きていればわかる。
と思っていたら、そうでもないらしい。

世の中の流れでは、人間にもラベルをはったり、区別をつけたりすることが多勢のようだ。
確かに、専業主婦か仕事をする女性かとか、病気がちか健康か、健常者か障害者か、高齢者か若い人かとか、区分けするほうが、話が早く進む。

けれども、今だけ仕事が途切れていて、たまたま専業主婦なんだけど、次の仕事がなかなか決まらない人だとか、本当は、いっぱいいっぱいで仕事を辞めたくて仕方がないけど、仕方なく働いている人もいる。

病気ばっかりしているけど長生きしている人もいれば、健康そうに見えるけど、実は内臓系の病気の人もいるかもしれない。
若々しく見えるけど、実はもう60歳の人もいるし、見かけ健常者だけど、脳に障害がある人もいる。

そういうことは、この世の中で揉まれて生きてくれば、誰でも自然にわかってくるのだと思っていたが、そうではないということもわかってきた。
病気のひとだとか、障害者とか、生活困窮などという「不幸」な出来事に関与しない、あるいは見ないようにしてきた人もたくさんいることも事実である。

しかし、私は運悪くなのか、あるいは運よくなのか、世の中の「不幸」といわれているような出来事を直面することになった。
世の中的には、ネガティブで不幸な出来事を背負って生きることは、「普通の生き方」ができないということだ。

まあ無理して、普通の人っぽく、明るく大変さを感じさせないように、ぎくしゃくと振舞うこともできなくはない。
二言目には「大丈夫、大丈夫」と言って、
「人のお世話にはなりません。ご迷惑はおかけしません。」って言って、健常者文化圏範疇に居座ることもできるかもしれない。

そんな不自然な生き方は、私にはできない。
障害のある子を育てる上では、本音しか通用しない。
本音で生きるということは、上から物事を言う人の言いなりにならない、強い人の力に屈しない、「普通」とか「当たり前」とかいう「常識」をむやみやたらに受け入れないことだ。
そうすると、黒か白かの思考は全く使えない。
そうかもしれないし、こうかもしれないし。
こういう時は、ああかもしれないし。
はっきり言い切るということができません。ということになる。

しかし、世の中は、はっきり言い切って、制度にのっとって進まないと取り残されたりするから難しい。
そんなこんなで、まあ、ここは荒波たてないで、おさえていこう。
でも、ここだけはゆずれないなど、自分の立場も意見も半端な立ち位置になる。
そしてまた、偉くなることもできず、成功することもできず、まあ、望んでそうなったのかもしれないが、私は無名の人なので、肩書もない。

だから、私はいまだに、中途半端であいまいなまま、「よくわからない」ことを、考えながら生きている。
厄介な人生である。
白か黒かだったら、なんと簡単なことだったろうか。

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