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Who Cares? 知ったことか
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新しい民主主義のかたちへ
ジョアン・C・トロント著
岡野八代訳、著
「ケアするのは誰か?」は新しい民主主義のかたちを考える本である。
だから、ケアと政治という問題にも考えを及ぼし、現在ある形を根本的に覆し、新しい形を見出そうとする本である。
人は生きている間に、何らかのケアを受けている。
ケアを受けない人はいない。
それなのにもかかわらず、ケア活動、ケア活動を担う人々は軽視、あるいは無視されてきた。
著者がいうケアの定義は、
「人類的な活動(a species activity)であり私たちがこの世界で、できる限り善く生きるために世界を維持し、継続させ、修復するためになす、すべての活動を含む。」という幅の広いもので、私たちの生活のいたるところで見られるものである。
ケアの四つの局面
1 関心を向けること Caring about
2 配慮すること Caring for
3 ケアを提供すること Caregiving
4 ケアを受け取ること Care-receiving
そして第五の局面として
5 ケアを共にすること
となり、新しい民主主義の定義として
「民主主義は、ケア責任の配分にかかわるものであり、あらゆる人が、できるかぎり完全に、こうしたケアの配分に参加できることを保障する。」とする。
共にケアをしていく革命を超すには、今までの「ケアを周辺のもの」としてとらえていた視点を、「人間生活の中心」にすると、この世界は違ってみえてくるだろう。すると構造的不平等が見えてくる。
誰がケアをしていないのか。
特権的無責任を享受している人は誰か。
既存の政治、社会の中心が、特権的にケア活動に関心がなく、担わなくてもよく、「Who Cares? 自分が知ったことではない」と誰かにケアを押し付けておくことのできる無責任さに覆われている。
特権的無責任を終わらせること。
そこででくるのが、ナンシー・フォルブルが創作した寓話である。
むかし、むかし、女神たちが競技を開催することにした。
一定の時間内に集団で最も遠くへ走ることができる国に、健康と財産という素晴らしい賞を与えることにする。
どの社会が、一つのチームとして行動し、その構成員全員を前進させることができるかを測る競技を行った。
A国:走れるものは全力で走れ。
子どもたちや高齢者はすぐに脱落し、トップを走るものは彼らを助けなかった。全力で走り続けた健常者たちも疲弊し倒れていくが、後ろを振り返っても代わりの走者はいない。彼らは競争に負けることを確信する。
B国:性別分業
若い健康な男性をトップランナーとした。子どもや高齢者、病人や手当てが必要となった走者をケアするために女性を併走させる。
男性には早く走らせるために、女性に対する権威と支配権力が報酬として与えられた。しばらくすると女性たちは、男性たちの態度にあきれてストライキに入り、競技を続けることができなくなる。
C国:共にケアする/ケアと共に
全構成員に走ることと、走れなくなったもののケアが命じられる。男女ともにできるだけ早く走ることと同時に、ケアの負担を担うこと。ケアの負担は重いが、負担とともに走ることで強くなった。皆でケアをすることで得られる自由と平等は連帯感も作り出し、勝利はC国にもたらされた。
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