浸み込んでいったものが溢れてくること
映画を見たり、音楽を聴いたり、本を読んだりする。
映像やメロディや文章が、私の中に浸み込んでくる。
たとえていうなら、水彩絵の具が筆の先からすうっと、紙に吸い込まれていくようなこころよさ。
そして、内容はといえば、しっかり覚えていなかったり、忘れてしまったりするものだから、同じ本を2回読んで、ああ、これ前にも読んだことがあったなんてこともしばしば。
でも、吸いこんで浸み込んでいったものは、心の奥に残っているようで、ある日、ある時、ふいっと表に出てきたり、懐かしい思いや、古い記憶に充たされたりする。
それは、香りやら匂いやら、かすかな羽音だとか、さっと吹き抜ける風などによって、引き起こされたりする。
雨上がりの今朝、桜並木を歩いていたら、桜餅の匂いがした。
あ、桜の芽がそろそろでてくるようだ。
今年は早いな。
緑色濃い春が、やってくる。3月のライオンのように。
そんなことを感じながら、歩いていると、長女の声がした。
「あ、めろんのくるま。」
見ると、本当に、マスクメロンのような薄い緑色の車が、通り過ぎて行った。
長女は、色や形を自分なりの言葉で伝える。
語彙がたくさんある人だったら、薄緑の車とか、ライトグリーンの車とかいうのだろうが、長女の場合は「めろん」の色だ。
自分の知っているもので、表現をする。
なかなかわかりやすい。
季節外れのあったかい日、今日も元気に生活介護へ出かけて行った。
バス停までの、送り路、交わす会話はなかなか面白い。
長女が出かけていったあと、私は神経内科へ向かう。
神経内科へ出かける時間帯は、障害のある人が、通所先に向かう時間帯である。
いつも、同じ時間、同じバスに乗ってくる3人さん。
たぶん、グループホームの職員さんに送られて、バス停まで来るようだ。
のんびりとしたペースでバスに乗り込んでくる。
職員さんがバスの運転手さんに「お願いします。」と言ってから、バスが走り出す。3つ先のバス停には、3人さんを迎えに来ている、事業所の職員さんらしい人が待ち受けていて、またのんびり降りていく。
バスの終点から、電車に乗り換えた私は、一足先に乗り込んだ女性が、優先席に腰掛けたので、横に立つ。
すると、女性の隣に座っていた、たぶん自閉症で知的障害があるらしい青年が、女性に向かって右手をパーに広げて、
「じゃんけん、じゃんけん。」と言い出した。
女性は、横を向いて、たぶん「だめだめ、あるいはできない」の合図だろう手を振り出した。
真面目そうな女性はすごく困っている様子。
そこで、私は青年の前に立ち、パーを出して、
「じゃんけんぽん、あいこです。電車の中では静かにします。シー。」と言って、指を口の前に立てた。
青年は
「うん。」と首を縦に振り、理解した様子。
次の駅に着いたので、私はさっさと降りた。
知らない青年だけど、つい、こういう時相手してしまうんだな。
私の長女も、一人でバスに乗って、電車に乗って生活介護に通っているから。
他人ごとと思えなくて。
こういう行動も長年繰り返して浸み込んできたことが、自然にあふれて行動になってしまうんだろう。