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山の上の家事学校 近藤史恵

題名を見たときは、明治時代の女性たちが集う話かと思いましたが、しっかりとうらぎられました。
実は、令和の男性のための学校のお話でしたが、女性について、マイノリティについて、生きること、そしてそこに生じるすべてのことを考える内容でした。

離婚して一年目の新聞記者が、妹に進められてやってきた山の中の学校。
そこは男性たちが、家事を学ぶ学校でした。
自分は普通だと思っていた今までの暮らし。
自分は政治記者として、よく働いてよく稼いでいると思っていた暮らし。
その暮らしができることが、当たり前だと思っていた男性。
実は大変な誤解をしていたことに気づいていくのです。

家事学校にはいろいろな男性がいます。
家事は外注すればいいと思っている大学生。
自分は料理がうまいから妻のつくる料理に、つい一言言ってしまう男性。
認知症の妻がショートステイに行っている間に、家事学校に来る男性。
出所者のボランティァなど、社会活動をしている校長の花村先生。

カリキュラムはわりと、ゆったりしていて、寮もあります。
土日だけ、通う生徒もいます。
午前、午後と調理の授業があるから、昼ごはんと晩御飯は食べられます。
自分でビールを買ってきて飲む生徒もいます。

ほころび直しや、子どものヘアアレンジなどの授業もあります。
元旅館の建物で、少人数で勉強するのはなんだかとても楽しそう。
新聞記者の男性は、政治記者と言う花形の仕事が忙しいから、家のことは全部妻がやってくれているのが当たり前だと思っていたのです。
炊事、洗濯、掃除、買物、子どもの送迎。
妻も働いていたけれども、コロナで在宅仕事にしたから、何とかやってくれるだろうと軽く考えていました。

しかし、ある時、妻から離婚を言い出されてしまったのです。
妻はある時から、話しても聞いていないから、夫と話すだけ無駄だと思っていたらしいのです。
自分は、妻に理解されていると思っていたのに。
みはなされていたのか。

そこからは、一人暮らしの転落人生。
ごみだしされていない部屋のかび臭い匂い。
コンビニ弁当ばかりの栄養の偏った食生活。
ある日、妹に指摘されます。
あと10年たったら、成長した一人娘に、どういうふうにみられるだろうかと。
顔色悪い中年男性。
自分で自分の身の回りのこともできない。

そしてやってきたのが山の上の家事学校。
ここでは、ご飯の作り方。
買物の仕方。
ごみだし。
食器の洗い方。
洗濯。
風呂洗い。

はて、となんだか既視感。
養護学校(今の特別支援学校)で、ありました。
生活学習。
ああこれだ、生活学習。
私は思っていました。
この科目は、受験校でもやってほしいなあと。

つまり、社会の中では花形の政治記者も、生活学習をするのです。
山の上の家事学校では、家事だけでなく、生きること、生活していくうえで大切なことを学んでいきます。
たとえば、今までは、当たり前だと思っていた生活は、妻や母親が見えないところでしていた仕事で支えられていたこと。
誰かがしていたことに、気づくこともしないで、自分で出したごみ一つ片づけることができない自分。
人の話を聴くことができない自分。

実家に帰れば、ご飯が出るのは当たり前だと思って、手土産一つ持って行ったことがない自分。
母親や妻はいつでも、自分にご飯を用意してくれて当たり前。
女性は子どもを育てながら働くことに、罪悪感さえ感じているなんて考えたこともなったのです。

家事学校に来ている他の生徒たちとも話すことで、今まで見えていなかったことが見えてきました。
そして、ある言葉を思い出します。

マジョリティはマイノリティのことを知らなくても生きていける。
マイノリティはマジョリティのことを知らないと生きていけない。

真実です。
男性中心の日本の社会では、生産性のある男性で健常者以外の稼ぎ手でない人々。
女性、母親、一人親、母子家庭、障害者、病人、高齢者、子ども、国籍、人種、貧困、無職、LGBTなどなど。
マイノリティになります。

ある部分では少数派の人が、違う部分では多数派になるし、どんな場所でも、マジョリティである人間もいるが、あらゆる場所で少数派であるという人はそんなにいないものです。
それでも、差別を良しとしない人が多い場では、差別者は力を失うし、少なくとも内心を隠そうとするでしょう。

私がいつも思っていたことを、こんなにわかりやすく、小説として表現することができる作家さんて素晴らしいと思います。

近藤史恵


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