天才とは100%の努力

トーマスエジソンが言った
“天才とは、1%のひらめきと99%の努力である”
これには少し間違いがあると思う。
私は”天才とは100%の努力”だと考える。
そもそもひらめき、才能とはなんなのか。
生まれた時から人間に知性の差がついてると思ってるのか。そうならば生まれてすぐに腹が減ったと助産師に声を用いて訴えかける赤ん坊もいることだろう。確かに、身体に差があると言う事実は否めない。両親に由来する染色体でできているのだから個人差はあるだろう。ただ、どんなに身体が大きくたって運動ができない人間もいればその逆もしかり。
与えられたものを上手く使うにはその過程に努力がつきものである。
こんな話をよく聞く。
「あいつは運動神経いいから」
「あいつは勉強の飲み込み早いから」
これらは断じて才能と呼べるものではない。
努力の賜物だ。
君らより人生経験が濃い。それだけだ。
この世のほとんどの事象には因果関係が成り立つ。
知らず知らずのうちにできていることなんて努力の貯金、ちりつもだ。できるまでの過程に差があるならそれは人生経験と努力の質でしかなく現在の人類
にその測量などできないのだから自分のペースで進めばいい。
飲み込みの早いあいつだってできないことはあるし
遅い君にしかできないこともある。
ここにおいて”諦めたらそこで試合終了ですよ”という安西先生の言葉が効果を持つ。
諦めることは不可能を意味する。100%に達しなかった君の努力は天才とは呼ばれずにゴミ箱に捨てられる。自分で決めたゴールなら道草食ってでもどんなに卑怯な手段でもゴールするのが人間の美ではないだろうか。
私はこれまでの人生で”あいつは天才だから”という
言葉を受け、諦めてきたことがいくつもある。
君らもそんなことはなかったか?
勝手に先を走る人との間に線を引いて自分の限界を決める。
私はもう境界を作りたくない。自分の人生に、可能性に線を引いてしまったら一生追い抜くことはなく
尽きるだけになってしまう。
無数の可能性という梯子を自分で引きちぎって
下から見上げるだけ。
その場所は居心地はいいかもしれないが、景色は悪い。先を行く者の日陰なんて寒くてしょうがない。

この世に才能なんてない。世間から才能とされているものは紛れもなく君らが自分の努力で掴み取ってきたものであり、このことを自覚している人達には
共通している魅力がある。
それは自信だ。
成功も失敗も100%の努力なら自信に変わる。
その自信は自分を更なる高みへ連れて行ってくれる

この世にはすごい人がたくさんいるかもしれない。
ただ、その事実は君がすごくない人間と言っているのではない。
たくさんいるんだ。君でもなれる。
天才なんて努力をするだけでなれるものと思えばいい。
できないことはない、なんて綺麗事かもしれないが
絶対間違いではない。
綺麗事として何もしない間はできないままだ。
才能なんて存在しない。
なりたい自分になることが人生じゃないだろうか。
地団駄踏んでちゃ進めない。
まだまだ長く続く人生、見上げるには少し早すぎると思わないか。

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