祟りがスゴ過ぎて神様になった菅原道真
タタリがスゴ過ぎて神様になった菅原道真
菅原道真も「タタリ」がスゴ過ぎたんで
あとから慌てて「神様」として祀られました。
ウソの訴えで左遷され、
九州に追いやられた道真、
「東風(こち)吹かば 匂いおこせよ
梅の花 主なしとて 春な忘れそ」
という歌を詠み、遠い九州の太宰府へ
向かいました。
道真は2年後の延喜3年(903)、
太宰府で嘆きながら死んじゃった。
道真の死から、朝廷は道真の怨霊に
悩まされるようになります。
『北野天神縁起絵巻』などによれば、
道真が死んでまもない夏の夜、
比叡山の僧侶のもとに道真が現れて
「怨みを晴らす」と告げたといいます。
その後、立て続けに怪死事件が起きます。
延喜8年(908)、藤原菅根が
雷に打たれて落命。
翌年には時平が病死。
延喜13年(913)には源光が
鷹狩りの最中に泥沼に転落して溺死。
さらに時平の妹と醍醐天皇の間に
生まれた皇太子・保明親王が
延喜23年(923)、満19歳で死亡。
次々と続く朝廷貴族の死に、
人々は「道真公の祟りだ」と噂します。
醍醐天皇も道真を左遷したことを悔い、
死んだ道真を右大臣に戻す詔を出して、
その霊を鎮めようとします。
しかしそれでも怪異はおさまらず、
さらに衝撃的な事件が起きるのです。
延喜23年(923)、日照りや水害、
疫病を鎮めるために
「延長」と改元されます。
しかし、延長3年(925)に
保明親王との娘との間に生まれていた
慶頼王が満3歳で死去したことで、
道真の祟りはまだ続くと思われました。
そしてやはり人々を震撼させ
る恐ろしい事件が起きたのです。
それは延長8年(930)清涼殿において、
雨乞いの実施について会議の最中、
昼過ぎに突然黒雲が垂れ込め、
あっという間に平安京を覆いつくすと
雷雨が降り注いで、その後に清涼殿の
南西の第一柱に雷が直撃しました。
近くにいた公卿らが巻き込まれ、
大納言民部卿の藤原清貫は
服に燃え移った火に胸を焼かれて即死、
右中弁内蔵頭の平希世も
顔を焼かれて瀕死状態に。
清貫は陽明門から、希世は修明門から
牛車で外に運ばれましたが、
程なく死亡しました。
雷は隣の紫宸殿にも落ち、
右兵衛佐の美努忠包、紀蔭連、
安曇宗仁も死亡。
更に警備の近衛兵も2名死亡したのです。
あまりにも衝撃的で凄惨な事件でした。
この「清涼殿落雷事件」直後から
醍醐天皇の体調も悪くなり、
震えあがった朝廷は、
道真の子らの流罪を解いて
京に呼び戻しますが、
醍醐天皇の病は癒えなかったのです。
同年、醍醐天皇は皇太子・寛明親王に
譲位し、朱雀天皇が誕生します。
その7日後に出家した醍醐上皇は、
その日の内に崩御しました。
道真が死んで約40年後の天暦元年(947)
道真の祟りを解くために、
京都に道真を祀る社ができます。
それが北野天満宮であり、
こうして道真は神となったのでした。