名橋・旭橋秘話⑨橋下住人他 1 旭橋を語る会 2024年12月13日 18:55 橋下住人のこと、人柱伝説、アーチのてっぺんから飛び込む人、アーチの上で遊ぶ人、凱旋する将兵の話、出征する兵士を中島部落(遊郭)の幟(のぼり)を立てて見送る人々のこと、橋のたもとで軍事教練が行われたこと、馬糞風のこと、戦前戦後の木炭バスのこと、花火大会、お盆の灯篭流しのこと…などなど。旭橋にまつわる逸話は数多くあります。そのなかからいくつか。北海道経済2012年10月号橋下住人旭橋の取り付け部分の河川敷にムシロで囲われた小屋があり、そこを住居とする人が居た。そこの夫婦は廃品回収を生業としていたという。人呼んで「ルンペン」(ぼろの意、浮浪者など)。 今は使ってはいけない言葉かもしれないが、当時はルンペンストーブなどと、日常よく使われていた…。ここでは「橋下住人」と書くことにする。 戦後、引き上げてきた人のなかには住むところが無い人がいた。その人たちが橋下を格好の棲家とした。旭橋に限らず、牛朱別川に架かる永隆橋・中央橋・日の出橋・新旭橋にも他の橋にも橋下住人が居た。橋下ではないが、境橋上流パルプ工場側河川敷に10数戸のバラック建てがあった。忠別橋たもと河川敷にも通称「サムライ部落」というのがあり、。大正末期か昭和初期には相当数のバラック建てがあり、さらに戦後、引き上げてきて住居に困る人たちが住みつき、昭和29年には38世帯が生活していた。 河川改修や美観上の問題から昭和39年5月、17戸が旭川市の斡旋で他地区へ移転、残りは新築等自力で転居していった。橋下住人もラムライ部落の人も、戦争が落とした影の部分といえようか。北海道経済2012年10月号木炭バス 戦時中と戦後の一時期、木炭バスが走っていた。車体後部に設置した木炭ガス発生炉で木炭を燃やし、その際発生する木炭ガスを燃料にガソリンエンジンで走るという代物だ。 今のロータリーの辺りから旭橋へ向かって、緩い勾配になっていて、木炭バスに馬力がないため、馬車でも昇れる、この緩い勾配の坂を昇ることができない。そこで乗客全員降りてバスを押すという笑い話のような話が伝えられている。北海道経済2012年10月号飛び込む人父親に後ろ手に縛られて石狩川に投げ込まれ、泳ぎの特訓を受けた人がいて、旭橋~神居古潭まで楽々泳ぎきったそうです。その人(小平次郎さん)はアーチのてっぺんから川に飛び込んだという。頭から突っ込むわけですが、川底に着く前に水面に向かうという ジャックナイフという神業的泳法でした。当時は水深が深かったとはいえ小平さんにしかできないことでした。北海道経済2012年10月号灯篭流し5条通りに善光寺・真久寺・大休寺・慶誠寺(今は豊岡)があって、お盆には寺院揃って灯篭流しが行われました。 寺院街から檀家が行列を組み旭橋下流まで行くのですが、戦地で家族を亡くした人も多かったのでしょうか。手に手に灯篭を持つ人、帆掛け船のような船を曳き、その上に灯篭を乗せている人など、たくさんの人が参加したように記憶しています…時代の流れとともに、そうした行事も姿を消しました。北海道経済2012年10月号 ダウンロード copy いいなと思ったら応援しよう! チップで応援する #戦後 #旭橋 #ルンペン #橋下住人 1