寿司という技術

今年の4月から本格的に寿司を握り始めた。
コースで何万円もする寿司屋ではない。
回ってはいないが、そこまで高級でもない。
カウンター。お客様の前で握る。

ずっと日本料理の仕事をしてきたが、寿司を人前で握ったことがないので、どうしても身につけたい技術だった。

「寿司を握る」と言われて想像するのは、酢飯(シャリ)とネタと呼ばれる魚の切り身を両手で一体化させていくイメージだと思う。

だから、僕はとにかくその一体化をポンポンできる技術を身につけようと思った。数をこなせばできるだろうと。

最初はそれでよかった。右手でシャリを適量とりボールを作り、左手でネタを掴んで、合わせてにぎにぎ。

これを繰り返せばいいんだ。

ある程度慣れたところで、気が付く。
昨日のように握れない。調子が悪い。

技術不足かと思ったが違う。
原因はシャリの状態だ。人肌に温かいものと冷たくなったもの。
これでは握りやすさも、完成された寿司の美味しさも変わってくる。

また、ネタの大きさ、厚さによっても握りやすさが変わってくる。
これも握りやすさだけではなくて、食感、つまり美味しさが変わってくる。

それを追求していって、絶対の自信を持って握るようになるのが職人なんだと思う。
このネタはこの大きさで、この厚さで。
今日のネタは鮮度が良すぎるから薄めに、もしくは寝かせて明日使うとか。

結論、何が言いたいかというと、

寿司を握るというのは、
シャリとネタを合わせれば良いという単純な行為ではないということ。

握る行為の一番最初の、「シャリをとる」瞬間に完成はほぼ決まってしまう。
もっと言えば、手に水をつけすぎても少なすぎてもだめ。
前出だが、シャリが冷めててもだめ。
極論、魚の仕入れからもうすでに寿司の完成系は決まっているのだ。
単純な料理だからこそ、一つ一つの行程が命取りになる。

深い、深すぎる。

散々、懐石料理で一つ一つを丁寧にやってきたのだが、
こんな単純なことにまたしても気がつかされた。

やはり料理という同じジャンルだとしても、新しいことを始めることは刺激になる。

そして毎日毎日数百貫の寿司を握ることで、自分の型が出来上がったことにも驚きだ。

誰に教えられたわけではないが、自分が作りたい寿司を意識して握っていると、それに必要な行程がいつの間にかルーティンになっていた。

それが正しいかどうかはわからない。無駄な工程かもしれない。
まだまだ握っていく中で、変わるかもしれない。
それは自分を信じて変化を楽しもうと思う。

日本料理を代表する寿司、sushi。
外国人の笑顔を見れるのは本当に嬉しい。

最高の料理だ。

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