悪魔の甘露(たんぺん怪談)
保健体育の授業で、月経について教わった。たまさか数日後、美沙の肉体にそれは訪れた。しかし。
「生理の血って……、青い……?」
青い、真っ青な色水がぶちまけられて、水洗便器の中身に飛び散りながら青みを沈殿させる。美沙はしばし呆然とトイレにひきこもった。
備え付きのちいさな窓が、にわかに、なまぬるい湿った風を流してくる。美沙のつぶらな黒い目はふとそちらに目をやり、隣の家の、グレーに塗装された壁を見つめて穴をあけるほど見つめて見て凝視した。
それからやっとのことで、重い腰をあげて、トイレ上部に設置されている棚を開けて、今は病気で入院している母さんから、これがあるからね、と伝言されているものを発見する。
生理のナプキンをパンツに敷いて、パンツを履いて、スカートを引き上げてチャックも上げた。
美沙は、なにかの間違いでは、と思った。
(先生の言ってたこと。あるいは、本に書いてあること。だって血が青いもん、生理の血って青いもんなんだ。知らなかった)
下腹部が、ズキズキして目はくらくらして、気持ち悪くなる。これは話に聞いた通りだ。
(これ、病気?)
その日も遅くなって、美沙は、学校で使う道具箱を出してきて、カッターをキリリといわせてカッターナイフを露わにさせる。段々の線が入ったカッターで自分を傷つけるのは怖い。しかし。
(病院に行く前に。父さんに、相談するまえに)
確かめなくちゃ、ならない、気が、する。
おそるおそる、自分の手の甲をカッターナイフで切り裂いた。先端部に皮膚を引っかけてぶあつい包装紙のように肉を守る皮を破った。
あ……。怯んだ動物のような鳴き声が、喉を擦過した。
(青い――、青い血)
美沙の肉体の血液は、青。
だから、生理も血も青かった。
心臓が、前にこぼれてすり抜けて、落ちる。冷や汗が噴き上がって心拍数がグンッと上昇して気づけば美沙は脂汗だらけになってハァハァした呼吸をしている。
青い線を描き、血液が垂れる。
美沙の知っている限りでは、血の青い生き物なんて――、知らない。知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない!!
そんな矢先に、母は入院先から帰ってきた。
美沙はまだ生理ナプキンをパンツに敷いていて、腹がズキズキしているから夢中になって駄々っ子になった。母にしがみついた。
「母さん!!」
「あらあら。ミサ、……あらあら、ミサ」
母さんは、隣にいる妹を手でどかし、妹に言う。「ユア、お姉ちゃんと大事なお話があるの。ちょっと待っていてね」
母と美沙はトイレにこもる。美沙はパンツを下ろして、パンツに敷いてあるものを、青いものを母に見せた。
「母さん、おかしい。ネットで調べたら、薬で青くなるとか、イカの血は青い――ううん、透明? でも青くも見えるっって。母さん、あたしは人間じゃないの?」
「それ、あたしが悪魔だから青いんだよ」
それは、美沙の期待している回答ではなかった。
知らない、知らない、知らないなぁ――なんて思いながら、美沙の頬になぜだか知らずに涙が漏れた。
「……そっかぁ、あたし、人間じゃあなかったんだ」
「父さんには内緒。でも娘は、悪魔の子だから。ユアはまだ知らないよ。ユアはお父さんに似てるから血が赤かったから、産まれたときから母さんは知ってたけどね、ユアは人間だから。でもミサ、あんたは青かったから。ミサ、月経がきたなら、今度は一緒に魔女のミサに行こう。本当は、母さん、入院じゃなくて集会にでかけていたんだから」
「そうだったんだ」
美沙は、自分の名前が昨日までとは違う気分がした。まったく知らない、見ず知らずの人間の名前が、今日から自分と入れ替わる感覚。そんな感覚は知らないから、ぞっと鳥肌が走った。
ミサの血は青い。ミサは、妹とは違って、悪魔の子だ。
そんなの嫌だ――。いやだ、いやだいやだいやだいやだいやだ。一緒がよかった。一緒がよかった。
ミサがトイレを出て、リビングのソファーに座って呆然としていると、妹の結愛がやってきて隣に座ろうとした。手には、真っ白なジュースが詰まったコップ。匂いでグレープフルーツジュースとわかる。
妹の結愛は、なにやら訳知り顔で眉を寄せて、姉をうらやむ。
「血が青いっていいなあ。人間だったら、いらないよね? お姉ちゃん、いいなぁ。血が青いのいいなぁ」
「……血を交換したいね。……できるならね」
「あ! 交換、したい!」
できるの? できないよ。
秒で答えて、ミサは脱力する。人間ではなくなった今日からの自分が、明日からどう生きるのか――。
悪魔ってどんな生き物か、まずは本を読もう、と思った。悪魔なら、悪魔として生きるなら、悪魔らしくならなくちゃ。
そしてミサと結愛の母は、自分の部屋に戻る。殺風景でモデルルームのように家具がなく、純白のように白い壁紙と質素なベッドとテーブルとイス。
イスに座って、はあ、溜め息を吐いた。
「ミサが青いのに、どうしてユアのが、性格が悪魔のものになっちまったんだろう」
続けて、悪魔らしからぬ悲哀に満ちた呟きを漏らした。
「取り替えられたらよかったのに」
取り違えたような肉体と性格の姉妹、この後をどうするかと悩んで、しかし将来なんかと知るもんか、と悪魔は悪魔的に疑問を放り捨てて、ともかくも新しく生まれた同胞を歓迎するべく、新たなるミサの準備に取りかかるべく、県内の悪魔たちにグループラインを送信した。
『あくまがうまれたよ!』と、誕生日の絵文字がついたスタンプを、まずは送った。
END.
読んでいただきありがとうございます。練習の励みにしてます。