資本主義の外部に行くには、自転車に乗るのが良い
資本主義の外部に行くには、自転車に乗るのが良い。もちろんスマホは置いて、なんとなくの勘で進んでいくのだ。そう、スマホを買い与えられる前の小学生たちが、友達同士で放課後に集まって自転車にまたがり、行くともなしにどこかへ向かってただこぐように。私が小学生だった頃、すなわち1990年代初頭、スマホはもちろん地図もなかった子供である私には、街はとても大きいものだった。時に意外な発見と、時に不気味な発見が、街に交互に埋め込まれていた。
私は小学生の頃、スイミングスクールに通っていた。行きはスクールバスで10分程度、帰りは友達といっしょにダラダラと歩きながら30分。親からもらったお小遣い100円でジュースを買って、それをちびりちびりと飲みながら、たまに駄菓子屋に寄って、それもちびちびと食べながら。ある時、ふだんとは違う道を通ったら、何かの町工場の横を通った。その窓に「幽霊」のような何かが見えたと、友達の誰かが叫び、怖くなったみんなで急に走り出したことがあった。後日、その工場らしき場所をさがしても、これだというものは見つからず、謎であった。というか、おそらくいつもあった場所なのだが、たまたまその日に「心霊スポット」的なものになったのだろう。といっても、夕方4時か5時ぐらいなので、そんなに怖い時間帯でもない。
そのスイミングプールはもうなくなっていて、商業施設ができた。いまでもたまに、その辺りを自転車(電動だが)で通るが、もちろん子供の頃のような距離を感じることはない。感じる距離=距離感は、実際の地図上の距離、とは異なる。大人になれば子供のころと距離感は異なる。車や電車、飛行機に乗るようになれば、無限とも思える距離は一瞬で移動できるようになる。ふと思ったのは、今の子供たちは、私が小学生の時に感じたような距離感を、感じているのだろうか? ということであった。スマホをポケットに入れてしまうと、この世界からの出口はどこにもなくなってしまう。すべてが世界になる。そんなことは当たり前すぎて、もう気にならないのだろうか。