見出し画像

紀伊國屋トークイベント 1人反省会(前半)

おかげさまで満員御礼の紀伊國屋トークイベント。来場された方、本を買っていただいた方、準備をしてくださった方、一緒に登壇した方、ありがとうございました。

イベントで話題になったこと、会場からの質問を私の視点で振り返り、言葉を繋げてみたい。(あくまで私視点である)

①「暑い世界」はディストピアにならない?

『ディストピアSF論』を出してからTwitterでエゴサしている。おかげで8月は「ディストピアの夏」となった。Twitterで、皆が何に「ディストピア(SF)」を感じているかというと、マイナンバーや身体管理などの監視技術、異常な暑さ、ディストピア飯の3つが多かった。このうち「監視」と「暑さ(気候変動)」は現代のディストピア性として紹介した。が、「暑さだけではディストピアにならない」という指摘を受けた。

確かにその通り。「災害ディストピア」で分析したのは、恒久的な災害により既存のインフラと秩序が崩壊し、その結果、ディストピア的な新しい世界が出現する/したSF作品であった。暑い夏がディストピアとイコールになるわけではない。もう少し丁寧に説明すればよかった。

災害ディストピアは「インフラの崩壊は文明の崩壊」をあらわにする。監視や管理だとプライバシーの問題をいかに嫌がろうとも、電気ガス水道インターネットが止まれば、それどころではない。

また暑さ(異常気象、気候変動)は、テクノロジーによる解決(テクノソリューショニズム)の不可能性を明らかにしてもいる。暑い→冷房→もっと暑くなる→冷房…という良くないループだ。負荷を軽減するためにさらに負荷をかけ、結果、インフラごと崩壊しかねない状況になっていないか? 

このように、「暑い夏」はディストピアへつながる2つの要素が入っている。

②ディストピア像の歴史的変遷

ディストピアの現代性(今日性)はたびたび議論になった。ネット・SNS社会になったので、フィルターバブルにより個人が「自分だけの世界」に、それこそ『マトリックス』の仮想現実のように閉じ込められている。Twitterでの議論は、一生、噛み合わない(だから、互いの意見が交差だけする様子を示すXになったのだ、と言っているYouTuberもいたな…。)

あるいは、ネット・SNS社会になり、メディアやコンテンツは自分の好みにパーソナライズされるが、それと引き換えに、自分の自己イメージ(像、情報)がネットに流れ出て(意識的に・無意識的に)、それを自分でコントロールできないことによる不安も高まっている。極端なことを言えば、現代において SNSをやらない、という選択肢は(ほぼ)ない。しかし、SNSをやることへの不安は必ずついてまわる。

というのは現代的なディストピア像である。イベントで指摘があったが、もっと昔であれば、冷戦構造、核戦争(の恐怖)、公害、食糧危機、人口爆発などが、ディストピアの入り口であった。

30年後の私たち(2050年代くらい)は、いったい何をディストピアとみなしているだろうか? と考えてみると、面白い。ちなみに「人口調整ディストピア」で検証したが、ディストピア社会が市民の人口を調整する理由は、様々あり、「平穏のため(戦争回避)」「人口爆発/食糧危機」「命の大切さを理解させる」「少子高齢化/社会福祉の削減」など。時代を如実に反映している。

③インセル/非モテは「異様な者」なのか

物語は今も昔も流通している。しかし、現代の物語は、かつてないほどに「動画」ではないか? 写真、音声、動画で物語が伝えられる。そして、物語の動画化と同時に進行しているのが、社会においてコミュニケーションの価値の急騰である。産業構造の変化(1次、2次、3次)にあわせてコミュニケーションできる/できないが、労働者選別の軸になった。かつまた、社会の流動性が増加したために、コミュニケーションの内容・様式も複雑化した。コミュニケーションの価値のみならず、コストも急騰している。

かような状況で、コミュニケーションで挫折をした人が、その原因を自分の容姿に求めているのではないか? コミュニケーションの問題をモテる/モテないに誤変換(あるいはズラす)していないか? 

その上で、「異様な者」は多様性に包摂できるのか、できないのか。できるとすれば、どうやればいいのか? できないとしたら、どうすればいいのか?

(続く)


いいなと思ったら応援しよう!