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居場所。

ずっと居場所を探しているのだろうか。
学校のようにたくさん人がいて、その中にいる自分みたいな場所を。
家にいるとそこしかなくて、インターネットとの行き来で一日が終わってしまう。とても健全じゃ無いなぁと思う。

7月の初め、短期バイトチャレンジをした。けれど自分の力不足と環境との噛み合わなさで、一日で辞めてしまった。研修ではほぼやることを教えてもらえず、初日急に店へ入れられて汗が止まらなかった。焦りから動いた結果なのか。
でももっと頑張るべきだったとも思う。一日じゃ何もわからないし、心を殺してやるべきだったかもしれない。みんな頑張っているのに、すぐ諦めて投げ出して。品出しさえも自分はできないのか、と悲しくなった。
でも随時正社員の人に聞きながら作業を繰り返すことに、申し訳なさが勝ってしまった。最初に作業内容を教えてもらえるものだと思っていたけれど、そんなに甘くないということなのか。

好きな場所で働くほうがいい。そんな教訓を得た。過度に明るくなくて色が散らばっていないところ。こんな注文つけて仕事を探すこと自体、すごくおこがましいことのように感じる。仕事選ばず働けよ、わたし。と思う。
でも上手くできなかった。初めてした肉屋さんも今回の薬局の品出しも。
好きなところなら続いた。静かで暗めな喫茶店。忙しくて大変な日もあったけれど、喜ぶ人の顔を見ると嬉しくなった。だから自分勝手だけど、自分の体調が悪くならない環境を探してしまう。第二のそんな場所を追いかけてしまうのだ。

友人たちと会うたび苦しくなった。絵もバイトも中途半端な人間でごめんなさいと思った。
みんな各々の場所で頑張っている。
わたしは未だ家にいる。早く出ていかなきゃいけないのに。
生きてる意味が何度もわからなくなる。好きなものを見たり描いたりしているときは、生きててよかったとなる。その“生きててよかった“を増やすことを目標にしてもいいのだろうか。もっと苦しまなきゃ、社会に揉まれなきゃいけないんじゃないか。いつまでもぬるま湯に浸かっていてはいけないんじゃないのか。

大学にいるときも他人と比べては落ち込みを繰り返していたが、実体があったし仲良くもなれた。
今は身内以外と会う機会がない。個展や旅行で人と会い話すたび心が躍る。
でも終わった後は毎回疲れてしまう。一人反省会ばかりが長引く。

今わたしには『会う』が足りないのだろうか。他人と考えを交わらせる時間。
物理的に他人と会うことが難しくて、自分の中で同じようなことでぐるぐる悩んでいる。一人は気楽だけれど、どんどん内側に潜ってしまう。
せっかく時間があるのだからたくさん話したい。言葉にするのは苦手だけれど、話を聞くのは好きだ。自分の世界にはない考えを知ることができるから。

わたしを見つけてほしいのだろうか。今のわたしはいないも同然だから、居てもいい場所を探しているのだろうか。どう思われるかというより、自分がどう思うかの方が大きい気がする。心が痛くないところ。心が生きていられるところ。

ゆっくり探していいのかな。
ずっと焦っている。
ただ弱いだけで、勇気がないだけで、本当にだめだと思う。
一歩も踏み出せていない。こうやって感情を言葉にしているだけで、現実は何も変わっていない。生き方がわからない。他人に甘えて頼ってばかり。これ以上迷惑をかけてはいけないと、安心できる場所でこれを書いている。このままじゃだめなのに…

思考が極端になってくる。自分の気持ちは何一つ正しくなくて、でも他人に沿って歩くこともだめで、じゃあ何を信じていればいいんだろう。
こうやってぐるぐるしてしまうのもただの甘えなんだろう。体は元気な人間なのにちゃんと働いていなくて、貢献できていなくてごめんなさい。謝ることしかできないけれど、一体何に対して謝っているんだろう。
わたしを受け入れてくれる場所はあるのだろうか。わからない。生きてていいのかな。



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