西の空へ祈った日々のこと:続々々
【このお話は、今回でおしまいです】🌿🌿🌿🌿
ずっと昔の事なのに
ついこの前のように感じるお話です
末っ子が全寮制の高校に入学し
やらかしながらも2年に進級
事なきを祈ってヒヤヒヤしてたら
いよいよ犯罪のニオイがしてきたあたりから
お話が続きます
◇◇◇
学校寮で生活している息子やそのお友だちが、事もあろうにア〇ルトDVDをダビングして売りさばいてたという連絡が入ったものの、親はしばし待機と言われて、わたしは自宅で悶々としていました。
その数日後に電話があり、またしても学校への道を200kmクルマで走ることとなりました。
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いつもの校長室に通されて、先生方から説明を受けます。
息子は顔色を失っているように見えました。
最も危惧されたのは、アブない勢力とのつながりでした。
学校側でも慎重に手を尽くして調査されたようでしたが、それだけは無かったとのご報告。最悪の事態ではありませんでした。
当時は、闇バイトやブラック案件など皆無な世の中で、SNSもろくに普及していません。息子達はアイディアを出し合ったのか、何かの模倣をしたのか、仲間内で力を合わせて(?)コツコツDVDをダビングして、それをコソコソ口コミで売りさばいて、お小遣いを稼ぎ出していたのだそうです。
売りさばくにあたって、強要や脅かしは無く、適正価格(?)ではあったようです。(いらん情報でした)
そんな報告に迂闊にもホッとしている自分がいましたが、何であれ違法行為ですし、おおいに風紀に反する行いです。
警察沙汰にでもなってたらタダじゃ済みません。←罰金というイミじゃなく
学校からの処分は期限を決めない謹慎処分でした。いわゆる無期停学というものでしょうか?
お話が前後しますが、今回の違法行為が発覚した直後から、息子達は寮内謹慎を言い渡されていたそうです。
全員が男子でしたが、彼らは教室で授業を受ける代わりに学校敷地内の側溝の掃除を言い渡されて、ーーわかり易く言うとドブさらいですねーー、皆で黙々とさらっていたと聞きました。
罰則もなんだか長閑なものでした。
そんな数日の間に、ヒヤリとした出来事があったそうです。
息子は積み重なった処分の履歴がたくさんありましたので、他の生徒さんよりも重い処分が出ることが予想されていました。
なにを慮ったのかは不確かなままですが、思い余った息子が寮の二階のベランダから飛び降りようとしたそうです。
近くにいたお友だちと駆けつけた先生が、身体を張って止めて下さいました。(息子は中学卒業時に身長180cm超×体重70kg超で、汗)
済んでの話で聞かされたわたしも、言いようもなく重いものがずしりと来るのを禁じ得ませんでした。
けど、
二階のベランダから飛び降りても、下は芝生で死にきれませんよね。汗
息子にそれを言って、人騒がせをすな!と頭をはたいてやろうかと思いましたが、やめました。
(もっと高いところでトライされたら大変です)
校長室でのお話が終わって、寮監長の先生だけが残りました。
何かお話がある様子です。
息子も入れて3人でしたが、寮監長の先生がおっしゃいました。
「お母さんもうすうす感じておられるかも知れませんが、息子さんを退学処分にするという意見があります。」
(・・・・)
「学校や学校寮という集団の場では、いよいよ違反行為を見逃せない場合があるのです。」
先生がおっしゃることは尤もでした。ここに書いていない「見逃し」も、実は幾つもありましたから。
命運はここに尽きるのかと、わたしの胸の奥で心臓がしゅっと固まりました。息子の様子を伺う余裕もありません。
「けれども、 私は寮監長として、息子さんと生活しながら、見せてもらった、この子が持っている、人としていいもの、を、殺してしまってはいけないと、思うのです。」
(・・・・)
「ですから、私は、教師生命をかけて、息子さんをまもります。」
「へっ??」
「こんないい子を退学にするような学校で、ものを教えたいとは思いません。」
「はぁ?」
自宅謹慎中の毎日は、いつになく神妙な雰囲気でした。(親子共々)
おいしい物もさすがに進まない様子の息子でした。
学校からの課題や反省文に取り組みながら、静かな日々が続きました。
そしておよそ2週間後に、学校からお呼び出しの連絡が入ったのです。
今回のお呼び出しで、違反行為をした生徒とその保護者が一堂に会するのかと、わたしは予想していました。
しかし、校長室に他の親子の姿は見られません。
いやな予感が線状降水帯の雨雲のように広がりました。
崖っぷちに立った気分でした。
先生方が揃うのを待つのが、長かったこと‥‥
やっと校長先生もいらして、担任の先生からお話を伺うはこびになりました。寮監長の先生も座っておられます。
息子の処分は2週間の謹慎処分で、今日から学校へ戻っていいとのお達しでした。それまでの緊張が一気にほどけて、ぐにゃりとソファに倒れてしまいそうな程です。
けれど喜んでいる状況ではありませんでした。
ダビングDVD売りさばきの一件を主導した3年生の生徒さんが退学処分になったのです。進路も決まっていたにも拘わらずでした。
厳しいものを感じると同時に「次はありませんよ」と言われたように受け止めました。
その後の息子は、憑き物が落ちたように落ち着いて、規則を破る事がなくなりました。
でもこれは、今だから言える事です。
当時のわたしは、それはもう毎日を送りながら「何かまちがいは起こらないだろうか、明日も息子は生きててくれるだろうか」と心配が膨らんで不安が募ったものでした。
「何があっても生きててくれますように」と、朝に夕に学校がある西の空へ祈りました。
月日は過ぎて、
3年生に進級し、進路も決まってお正月を迎える頃には、すっかり落ち着いた姿の息子に、家族一同ようやくホッとしたものでした。
このお正月には、ベトナムからの留学生の子が自国に帰省せず、当家で日本のお正月を過ごすと滞在してくれたりしたものでした。
去る夏休みには、九州の佐賀県から急行列車を乗り継いで、後輩が遊びに来てくれた事もありました。
卒業も意識した高校生活の終わりを、感じ始めていたのかも知れません。
そうそう、
申し遅れたのですが、当時わが家には要介護5のばあちゃんが居ました。難病と認知症のため身の回りの事は全く出来ない状態で、胃瘻栄養(口から食事出来ないため高栄養ミルクを管で胃に流す)が10年目に突入した頃でした。
言うまでもなく、うちのじいちゃんの奥さんですね。
そのばあちゃんのお世話をしながらの遠征でしたので、行ったり来たりはまさに空中ブランコのようでした。
けれど、孫煩悩のばあちゃんでしたから、遠い学校で頑張る孫の姿をきっと一目でも見たかった事でしょう。しかし旅行などばあちゃんに出来ようはずもありません。
留学生もやって来て賑やかに過ごしたお正月が過ぎて1週間後に、そのばあちゃんが居間のベットで静かに息を引き取りました。
学校へ戻ったばかりの息子を呼び戻してお葬式です。
田舎で親戚付き合いが多いため、弔問客が100人を超えるものとなりましたが、おおきな息子は親族席で滂沱の涙を流し続け、おおぜいの涙をさそいました。
ばあちゃんのお骨が自宅へ帰ってきまして、四十九日法要が、息子の卒業式の翌日に決まったのです。
ここでピンと来たら110番。汗汗
ではなくて(笑)すいません、最後まで聞いてください。
ばあちゃんは胃瘻や在宅酸素や導尿などの管につながれて見動き出来ない身体でした。けれどもお骨になってしまえば何処へでも行けます。
1日違いで、ぎりセーフだったのも何かの思し召しかも知れません。
これはもう、 連れて行くっきゃないでしょ~~!
もちろん、お骨ですから粗末な扱いは出来ません。
祭壇以外の場所へ置くわけにはいきませんから、常に誰かが抱えて持たねばなりません。
息子の卒業式には夫と一緒に出向きまして、交代でばあちゃんのお骨を抱くことに決めました。
走り慣れた東名高速を
今日は助手席に座って
流れる景色を眺めながら
膝に乗るばあちゃんに話しかけます
天気は快晴で、暖かい3月
最高のドライブ日和だよ
向かうは孫のいる高校で、今日は卒業式
膝の上でばあちゃんは
真っ白い箱におさまって
かたこと揺れています
ばあちゃん、明日からはお墓の下に入るけど
みんなのことをいつまでも見ていてね。
(骨壺を抱いて卒業式の会場に現れたわたしを取り囲んで、先生方や生徒さん達がどんな騒動になったかは、想像にお任せします。笑)
後日になって、息子の高校から届いた卒業アルバムには、お骨を抱いたわたしの姿がシッカリと映っていました。笑
このお話は、これでおしまいです。
長いことお付き合いくださり、有難うございました。
一連の東名高速道路 本線上の写真は、わたしは運転中のため画像がありませんので、友人の30sunfishさんからご提供いただきましたものです。