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作務(さむ)の由来に日々を改める考え方がある

僕は曹洞宗に属する。
禅宗の一派だ。

その教えの根幹は【座禅】にあるが、
すべての日常行為に坐禅と同じ価値を見いだし、
禅の修行として行うことを説かれている。

作務は「つとめをす」の意味で、修行道場における清掃や炊事、庭や建物の手入れや農作業など、全ての労働を指す言葉です。
そして禅では、この「作務」をとても重要な「修行」として位置づけています。

多くの方は「修行」というと、坐禅や読経などを想像されるでしょう。

もちろん、こうしたものも分かりやすく重要な修行の一部ではありますが、むしろ普段の何気ない生活(洗面・食事・入浴・用便など)そのものが修行であり、作務もまた同様に「仏としての自己を調える修行」であると考えるのです。

役割を担うという事

日常の「意識しないでもできる作業」が、
自己を調える修行という。

ある二つのエピソードが、上記引用のリンクに記されている。
【役割を担う】ということに、どのような心持で事に当たるかが、その時間の価値を決める。

「作務」という言葉は、今を生きる私たちに「役割を担う意味」について大切な問いを与えてくれます。

与えられた役割を、「好きな仕事ではないから」「やりがいが感じられないから」と嫌々こなすのか、それとも、自己を成長させる千載一遇の機会と捉え、正面から向き合うのか。自分の心構え一つで、人生の貴重な時間と労力が「大きな無駄遣い」となるか、「かけがえのない財産」となるかが決まるのです。

役割を担うという事

禅宗とは座禅を組むだけでなく、
きちんと丁寧に生きることもまた、修行だと説かれている。


丁寧に生きる

を、よくコピーライティングで見かけたりもするが、

本質は、
限りある時間をどう過ごすかであり、

それは決して、
やりたい事だけをやるという事ではない。

自分に与えられた仕事に一心に打ち込むことこそが大切な修行
だと書かれている。

それこそが、丁寧に生きるという事だと。


僕は昔、「俺が、俺が」という自己主張の激しい人間だったと恥じ入っている。
奢り以外の何物でもなかったと思っている。

若い時にこそ、こうした学びを深めることが必要だったと感じていて、そしてそれは、
痛い思いをしないと得れなかった学びだったとも思う。

丁寧に生きることは、今からでもできる。
そしてそれを忘れないようにするための、
座禅であり、日々の作務であるという事だと思う。


そうそう。余談ですが、、、
僕はいつか、作務衣で暮らせる日常にしたいと思っている。
そうして色々調べていたら、こんなオシャレな作務衣も今はあるんですね。

結構お高いですけど。

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old rookie (50歳無職|職業訓練でWEBマーケティングを学ぶ)
あざっす!コーヒー飲ませて頂きやっす! (揉み手)