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『Kの逡巡』に寄せて

   絵画には画家の視線が現れている。具象画でも抽象画でも画面に現れているものは画家の視点を通したものである。画家は自分の見たものや経験から画面を構築する。画家はどんなに客観的な視線を得ようとしても結局は自分の視点を通さなければならない為に主観的な画面を構築せざるを得ない。それは文学といった他の芸術作品にも共通している。
 今回の展示タイトルである「Kの逡巡」ではKという自分以外の視点で絵画を構築することをテーマに制作した作品を展示する。そもそもKとは文学作品によく登場する匿名的な表記である。文学におけるKの立ち位置とは様々ではあるがその中でも共通しているものもある。Kには一種の匿名性があり、『こころ』のKも『Kの昇天』でもKについての心情は明確に書かれてはいない。読者が周りの登場人物からの関係性から探っていくことしかできない。要にKは私たちが勝手に想像するしかない、テキスト上の主観的な人物像である。またカフカの小説にもKは度々登場する。カフカでのKは作者の分身といった部分が強い。いつまでも城に入れず周りを彷徨っている測量士のKもカフカの分身であると同時に読者である私たちでもある。Kという匿名性を帯びた人物に読者は没入しカフカの不条理でどことなくユーモアのある世界に放り込まれる。
 文学で扱われるKの視点と私自身の制作での視点は非常に近しい。私の描く絵は主観的であると同時にどこか俯瞰した視点を意識している。人物を記念写真のようにありふれた構図で入れるのも視点をフラットなものにするためである。人物を画面越しに見ているのは作者でもあり鑑賞する人々である。他にも今回展示している作品でも特定のモデルを分解し再構築している。描かれる風景は私のイメージではあるがそのイメージを形成するのは私の記憶や経験である。その記憶は今まで読んだ本や絵、映画などといった情報から想起されたもので単純に言い換えれば他人の記憶の断片からなる情報の集合体でしかない。描かれる風景は観ることの連続により分解されミニマルな画面へと変化していく。今回新しく描いた作品にはこの様な視点の変化を行っている。具体的な風景を描いていてもそれらは分解されたものでただの写真的な風景ではない。私の記憶という情報と結合し出力された絵画となっている。アンナ・カヴァンの書く小説のように現実と頭の中のイメージが混同されている様子に近いのではないだろうか。

中澤龍二

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