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雑記(長編)

個展に際して、書き溜めていた雑記をまとめて公開することにした。息継ぎとの交換ノートにも思っていることなんかは書いてはいるが、それよりももっと独り言みたいなものである。偏見や視野の狭さ、など見苦しいものがあると思われるので注意して欲しい。これを読んだあなたが嫌な気持ちになったとしても、それは私とあなたの考えの違いであり、私の考えを押し付ける意図や傷付ける意図がないことは理解して欲しい。ただ私は自分の考えを述べているだけで、その考えも案外容易く変わっていく。その変わっていく前の段階を記し残していくことは自分にとって無駄ではないと判断している。雑記は時系列はめちゃくちゃで、更にツギハギになっている。読みにくかったら申し訳ない。また感想なり、意見などがあったらコメントや直接伝えていただけると幸いである。

個展に際して。
 今はプライスリストを作っていて、会期が半分に来たのにまだ終わっていない。おおよそ、50点ほどのペインティングを展示している。ほぼ2021年から2023年の作品の中から軽く選別している。多分、今日も終わっていない。欲しい作品があれば、プライスリストなんて無くても買いたい人は買うし、買わない人は買わないんだから、あっても無くても….なんてね。
 そこまで作品を売ることに執着はしていなく、そもそも作品が売れずとも絵は描いて発表していく。ただ売れれば、嬉しく、丁寧に保存して貰えるならなお有難い。自分でちゃんと保管するには限度がある。売れたお金で普段買わない画材を買ってみたり、大きいキャンバスを買ったりする。あと高い画集とか。ただ、その収入が絵である必要性というのはない。結局バイトなりの収入で今は補えているのだから。売れる絵が良い絵とは限らないのは当たり前で、純粋にいい絵がちまちま売れていくのが感覚としては良いかなとは思っている。少しずつ、地道にやっていくのが性に合っている。ま、純粋にいい絵ってなんなんだろうね…
 前置きは置いておいて、本題に入る。今回の展示では2021年から今年に描いた作品の中から選別して展示している。一枚だけ、違うものもあるが….簡単に変遷をまとめる展示構成となっている。ギャラリーに入って手前は比較的、前の作品が多く、奥が新しめの作品になっている。日々生活をしていると思考は変化していき、それが絵に現れる。描くペースも早く、絵に割くリソースの配分がそもそも高い(学生だから時間を割ける)ので月単位で変わっていく。変わっていく事は良いことでも悪いことでもないが、1度整理という形で展示をしたかった。今まで描いた絵を広いスペースで観ていると、昔考えてた事や気を使っていたことが絵から読み取れる。過去を経て今の自分があることで立ち止まり、たまには昔の絵をみてみるのも良い。シャトー2Fが通いやすいというのもあり、割と在廊している方である。在廊中は人がひっきりなしに来る訳ではなく、偶にぽつぽつ観に来る人がいるので、もっぱら自分の絵を眺めている。たまに来る人と絵の話をする。はじめましての人と絵の話ができるのも嬉しい。今回はのんびりした展示で性にあっている。自分のペースが崩されるのが何より嫌いなので、このくらいの人の入り、作品の販売、交流が丁度いいなと思っている。
 新しい事を試みていたと思っていたが実は先人たちがとっくにやっていたということは良くあることである。画集を見る事や展示を見る、本を読む、映画なんかは続けるとして、自分にしかないものを摸索する事と今の社会と関係する作品を作る事が今後の課題なのかなとは思う。それには別の視点からのリサーチ、モチーフへのアクセスが必要なのかなと思う。あと、自分の生い立ちを振り返ったたりなのかな。文章としてまとめすぎるのも良くないが、割と最近はサボっていたのでまとめてみるのも良いかもしれない。
 
 人の展示を見てみて、書き手がどのように思考しているのかが分かる。画面は勿論、どこを拘っていて、どこを拘っていないのか。インストールを見れば、だいたい分かる気がする。
絵が水平か、高さはどのくらいか。配置。絵と絵の距離。要素は沢山あり、それを見るだけでも知り合いでもない書き手がどんな人なのか想像したりする。裏張りで側面が滅茶苦茶綺麗だったりすると絵だけに集中して欲しいのか?と思ったりする。マステ処理とかで。また下地や塗りが丁寧過ぎて綺麗な場合は、気遣い〜細け〜となる。(褒めてる)
中園孔二の絵を見ると、キャンバスは裏張りも側面張りもどっちもある。タッカーがありえん打ち方されてる絵もあって、絵というか表面的な絵画の造形に興味のある人なんだなと思ったりする。

絵を描いている。去年よりも描いている絵は少ない。出来にも納得できていない。迷いながら描いている。日課のように絵をネットでディグる。ブラウザを開いて閉じて、作家をメモる。昨日はいい絵を描く人を見つけた。Vladimir Shinkarevという人で、絵の具は軽そうなのに画面は重く冷たい感じがする。街が描かれた風景が多く、車だったり、人が疎らにぽつんと立っていたりする。戦時下の人のいない東京を描いていた松本竣介に似てるなと思った。彼はロシアの作家らしく、そんな感じするなぁーと勝手に思った。サンクトペテルブルク在住で、今って行けないんだろうなと思い外務省のホームページを見たら、ロシアは全土で渡航中止勧告が出ていた。ウクライナ国境は真っ赤で退避勧告が出ている。当たり前か、とも思うが当たり前って思いたくないよなーと思う。9.11はテレビの向こう側の戦争だったが、今はスマホの画面越しらしい。中学の歴史では、日本が敗戦してから現代までの内容が終わらなかった。そんなんだから、自分で調べるまでは世界って第二次世界大戦後は平和なんやなぁーと思っていた。そんなことは全く無かった。ずっと何処かしらで内戦や紛争は続いていた。西の方を見れば、21世紀とは思えない事ばかりで人は死んでいる。スマホ越しの情報は数字でしかないが、その数字に家族や恋人、大切な人がいると考えるとやるせない気持ちになる。そんなことは、有史以来ずっと人間は続けていて、自分はたまたま日本に生まれ、恵まれた家庭で育ち、ぬくぬくと育っただけで偶々、当事者にならず済んでいる。その差はなんだろうと思う。時代に寄り添って絵は描けたらいいなと思う。日本にも良い所は沢山ある。時代の変遷で残されないもの、感覚を画面に記録して置きたいと思っている。写真より絵画は私情が入る。私の頭は、かなり主観的で油絵という媒体があっている。絵って良いところは、汚いもの、見たくないものを見れる状態にまで改変できるのはメリットになると思う。今の時代は褒められる程素晴らしくはない。どこもかしこも高齢化で、地方都市の衰退は激しい。東京から出るだけで、ひしひしと感じる。そんな風景でも絵に起こすことはできる。廃れゆくものを記録する。それだけでも無意味ではないんじゃないかと思う。この国は自分が子供の時から比べると確実に衰退していっている。何でも、高くなった。自分の親の偉大さが分かる。自分が親になったとして、自分が受けた教育を子供に受けさせることができるか、と言われたら、無理だろう。今の時代で絵を描いていられるだけで恵まれている。絵って、道楽じゃないんだぜ、まじで。その恵まれた土壌で、自分は何をやってきたのか。何をするのか今一度考えてくれ、自分。
追記2023/12/01
世界情勢でピックアップされるものがすぐに変わる。ウクライナ情勢でも思っていたが国連や国際法ってもう何の抑止力もないものになってしまったよな。形骸化している。別に国連が何もしてないって言いたい訳じゃない。UNHCRとかあるしね。俺みたいに外からうだうだ言ってる方が何もしてないし、何も役に立っていない。
形骸化のせいか、何かのせいって訳ではないんだろうけど(色んな問題が混ざり混ざってるから)全然、ウクライナとロシアの停戦も決まらないし、イスラエルとハマスの戦闘も再開した。ウクライナはウクライナ騒乱以降、EUやNATOの加盟を求めてるが一向に進まず、代理戦争をだらだらと続けている。その間に行われる戦争犯罪、ジェノサイド…ほんとに現代の話か?ってなる。当事者じゃないとこんなに他人事なんだって思うよ。いつか自国が侵略されたり、自分の住む街で戦争を始められた時に、今までで何もしてこなかった事のツケだと思い諦めるんだろう。パレスチナ、ウクライナを見捨てた側であるについていくんだから、いざ自分達が切り捨てられる側になる覚悟もしてなきゃね。人は無知であるのは当たり前なんだけれども。その無知が意図されたものになればもうそれは悪意と言ってもいい程の邪悪だと思う。自分ひとりが何かをしても大して変わらない。諦観も怠惰も、自分の生活で手一杯故の保身もね。人に構ってあげられる程、余裕のある人間の方が少ないもんな。見たくないものは見ないのは健康的で美徳で最近の流行り?そんな風潮はあるよね。優しすぎる世界。普通に社会も世界も野蛮で酷いことばっかしてんだから見てたっていいんじゃないかって思ったりもするけれど。自分たちだけ、平和な方向だけを見て、。そんな生き方を否定はしない。だが自分の選択で、行動で誰かを不幸に追いやっている事は往々にしてあると思う。自分達の幸福の為に誰かが不幸になって構わないと思っていないか。
自分が何も気にせず買った物、食べたもの。どこの国の企業で、どこと親しいのか。そんなことを考え出したり、調べ出すときりが無い。そもそも情報の真偽すら怪しいのだから。それでも、自分が払ったお金が周りに回って誰かを傷付ける可能性があるのなら、俺が募金箱に突っ込んだ財布でパンパンになっていた小銭達も回り回って命とまではいかないが、誰かの数時間くらいにはなるのかもしれない。

話題が変わって、支持体についての覚書を以下羅列。だいぶ前に書いたもので、時系列?目茶苦茶である。自分は主にキャンバスに油絵で制作をしている。新品の木枠や中古の木枠を近所の画材屋で買っている。木枠を組み立てて、市販の画布を張る。中目が殆どである。金銭的に余裕があれば、荒目や厚い布を買いたいと思っているが、それはおいおい。楽しみは取っておく感じに近い。キャンバスは全て側面張りである。側面にタックス(釘みたいなもの)で張っている。浪人期はガンタッカーで側面張りや裏張りをしていたが辞めた。裏張りは側面にタックスというノイズがないので作品が見やすいやタックスからの亀裂が起こらないといったメリットも多い。現代の絵画は裏張りは割と多いような気がする。裏張りの方がメリットは多い(と思っている)が何故側面張りなのか記しておく。1つ目としては、作業工程が可視化されていて、親しみ易い点がある。側面張りは側面にタックスを打った跡が現れるのでどのようにして張られたかすぐに分かる。丁寧に打たれていれば、描き手が丁寧な性格なのかと思うし、雑であれば大雑把な人なのかも?と分かる。個人的に雑なのが好みで敢えて適当にタックスを打っている。自分の画面の話に通じるが、敢えて絵の具や筆のタッチを残して(それが魅力で面白いと思っている)いるので側面もそのタッチの単位数に合わせている。自分の絵で裏張りやガンタッカーは、なんか違うなと判断している。本当に偏見だがガンタッカーだと絵が安っぽく観える気がしている。工業製品的な無機質さやホチキスの芯というのが気に食っていない。もちろん、ガンタッカーでの張りが適している絵もあるのであくまで自分の絵との話である。絵画は平面ではあるが、壁にかけると、壁とキャンバスの側面、絵の具が塗られている画面と空間が生まれる。そう考えると側面も絵の範囲であり、裏張りだと寂しさが生まれる。作業工程を見せない、裏張りで側面もマスキングをしている張り方だと画面に集中できる点もあるが自分には当てはまらない。そんなこんなで手張りで側面にタックスを打ち込んでキャンバスを張っている。好みとして、マティスも側面にタックスで張ってあり、親近感が湧いた。単純にタックスで打たれている作品が好みというのもある。あくまで個人の拘りなので、こういう人もいる程度で読み流して貰いたい。てか、タックスの話しかしてないな。
2023/11/11(追記)
F200の木枠を張った。友達に手伝ってもらった。側面張りは無理そうで裏張りにした。そこまで側面張りに一貫しているわけではないのかもしれない。さっさと画面に入ることがやっぱり自分の中で重要と分かる。

少し前の話。
次は適当にどんな感じに絵を描いてきたのか述べてみる。生活スタイル、スタンスはあまり変わっていない。映画、小説、音楽なんかはいつも身近にあった。
高校は普通科で、授業についていけず、あっという間に落ちこぼれ、美術教師に勧められ予備校に入った。そこからは、よくある美大受験といった感じで、藝大を目指し三浪し、4回とも一次で落ちた。二浪くらいか、忘れたがまた一次で落ちたのが恥ずかし過ぎて友人に二次で落ちたと嘘をついたことがある。恥ずかしいね。その節はごめん。浪人をしだしてから、うまく絵を描けなくなった。元々かもしれない。今も昔も理想だけは高い奴なのかもしれない。完成もしないし、ただ時間が過ぎるのをなんとなく待っていた。予備校の講師が完成しない絵はゴミだと言っていたのがずっと印象に残っている。まぁ、受験絵画は完成するかもしれないけれど、絵画は完成なんてしたほうが良くないんじゃないかと最近は思っている。そんなこんなでゴミしか生み出せないゴミは池袋のでかい図書館で小説やラノベを読み漁っていた。高い学費払って、何をやっているのか。後で親にバレてクソほど怒られたのを覚えている。正味、浪人中は馬鹿になっていたので、進路とか正直どうでも良くなっていた。浪人生以外にさっさとなりたかった。その事を親に話したら、今更どうすんだみたいな話になった。そりゃぁ、お金掛かってるからね。本当に。今更、絵なんて辞められないよと思っていた。別に辞めたって間違いじゃない。でも自分が親だったらぶち切れるかもな。話を戻し、池袋の馬鹿でかい図書館で私はヴァージニア・ウルフをつまみながら、緋弾のアリアをちまちま読んでいた。この頃は、正味難しい本というか、文体が古くて読みにくいものが頭に入ってこない時期でラノベばかり読んでいた。ヴァージニア・ウルフは捲っていただけかもしれない。アリアやシャナ、グリムガル、薔薇まり等は流動食みたいなもので脳が受け付けた。3浪末期に入るとラノベすら読めなくなり、まんがタイムきららの新刊通知で日々が過ぎるのを耐えていた。今思えば、まんがタイムきららが、日々の楽しみだった。けんもほろろ、カフカやゲーテ、ナボコフ、ヘッセは今は読めるが当時は吐き気がするレベルだった。予備校に行った日の帰りはジュンク堂が閉まるまで徘徊していた。棚の位置やフェア、書店員の趣味は今でもなんとなく覚えている。ハヤカワSFがよく推されていた。伊藤計劃や円城塔が好きな人がいたんだろうか。チャック・パラニュークが復刊されて面陳列されていた時期だった気がする。ファイトクラブやサバイバー、ララバイ。当時はよく読んでいた。上の方の階では、画集や写真集をだらだら立ち読みしていた。好きだったから、というより何かしていないと落ち着かなかった。勉強というより逃避で、本やアニメ、漫画に逃げていた。娯楽性の高いものは、流動食のように飲み込むことができた。元々、アニメや漫画は昔から好きだった。今はそこまで本数を見てはいないが続いている。絵の中の人物の造形は、今まで見てきたカルチャーへのリスペクトの様なものはあるかもしれない。可愛い絵柄で激重テーマを扱っているものが好きで、自分の作品も形を踏襲している。二次元的なキャラクターは、親しみ(わかりやすさ)があるので自分の考えが伝わりやすいんじゃないかと思っていた。最近はキャラクター(便宜的に呼ぶ)は排して絵の具遊びみたいなことをしている。どこまで形や色が抜けるかみたいな。たまに飽きて、ミチミチした絵を描く。そんな感じ。タイマンスや、サスナルくらいサラッと描きたい欲とネチネチと画面を弄りたい欲があるのでどっちもどっち(悪くいえばどっちつかず)をやっている。噛み合いそうな気もするし、噛み合わないかもしれない。実験的な段階なのかなとは思う。昔描いた絵でも描き直しはできるので、精度を上げるプロセスも挟みたいと思いつつ、差し伸ばしになっている。目先の結果に走りがちなのかもしれない。写実に行かなかった理由でもある。
2023/11/11(追記)
講評があり、思考の変化?整理あり。
キャラクター(便宜的にね)を描いている意識は無かったが、周りの作家友達にはキャラクターを描いて活動している人がかなり多かった。最近はまた変わって来ているが。そもそも、自分はアカデミックなデッサン力というのは昔からクソ苦手意識を持っていて、未だに稜線も形を合わせるといったことを避けてきた節がある。それなりに石膏デッサンも静物も3浪程度には描いていたが、努力不足と容量の悪さで多分未だに描ける方ではない。それでも美術や絵画ってやつは懐が広いので他の道ややり方でもある程度のクオリティにまでは持っていくことができる。自分の場合は形を合わせる、形態を出す、モチーフに寄り添うということを破棄して(デッサン的にいえば。)いる。破棄した上で残っているのはタッチや構図、色彩の要素だったりする。形は取れずとも絵画には、やりようがあって、反復し試行錯誤することである要素を抜いても成立を目指すことはできる。浪人中は要領の良い現役生がメキメキとデッサン力を上げてる横で、クソみたいな石膏デッサンを描いている状況は当然愉快ではなく、壁にぶち当たる。要領が良いというのは脳みそを使って、前回できなかったことを少しずつ改善させていくことで上手くなっていくのだが、自分はそれができなかった。そもそも似てるか、どこが違うのかがわからない時間が長かった。写真を模写して、そこそこの画力や正解を頭に入れてからモチーフを監察して描くというやり方なら上手くはいった?ような気はする。そんなこんなで、予備校でも人物を描いても形が違う、プロポーションがおかしいとしか言われず、表現する段階にすらならない。一生基礎科の画力であった。3浪位から写真から描き起こすことを始めた。頭でどうにかならなかったのだから、文明に頼った訳だ。それが案外上手く噛み合った。形を合わせるという作業を放棄し転写のような作業が殆どになった為に、色やタッチを拘ることに集中することができるようになった。始めてメガネをかけた感覚に近い。
それでも人物への苦手意識は長く、モチーフを人物と頭が認識してしまうと背景と人物で描き方が分離するということがあった。その解決として、人物は緩くして背景に手を入れて画面の強度を上げる事を始めた。参考にしたのは、長井朋子さんや工藤麻紀子さん、つくみずさんの絵である。人物を緩くしても作品として成立するのアニメや漫画で描かれるキャラクターである(?)かつ、絵画として成立させるために背景を描き密度を上げ、空間を作る。背景の密度が高ければ正直手前の空間は、手前に出てくる訳で簡単に言えば、キャンバスの地でモチーフ(人物でも)を形どっていれば画面としては成立する。人物を緩く、キャラクターにすることで自分の苦手を刺激させずに済むことができた。折衷案に近い。
2023/11/12(追記)
折衷案とか言ってるが、都合が良いからキャラクターを使った訳ではなく、そもそもアニメや漫画といったサブカルチャーが好きでリスペクトがある。故に、描くことができた気がする。
追記で全てが吹っ飛んだ。話を整理する。今書いたように、そもそもアカデミックな人物は描けない+大して描きたくもないので、人物を入れるとしたらやはり自分の好きな絵柄になるのだろう。最近は別に人物を入れない作品の方が多い。モチーフを絞ることで、よりモチーフに頼らず如何に画面の密度を上げるかを行ったりする。モチーフがあれば、勝手に見て描くだけで密度は上がる。モチーフが無くてもそれは行えることであり、それが少し出来て来たり来なかったりしている感じがある。
自分の事をキャラクター絵画を描いている人間かと思った時期はあったが(無いか?)やはり感覚が違い画面への執着が強い。キャラでも風景でも結局は絵の具で遊ぶ為の土台(言葉が適切ではないかもしれないが)である。その生まれてくる表層をどう分類していくのかは、そもそも自分が考えることでもないし、考えないほうが良いのだろう。
ただ、キャラクターを描く人間に言っておきたいことはあるので加筆。キャラクターはとてもわかり易いモチーフである。鑑賞者からすれば、アニメや漫画を見て育ってきた人からすれば尚更で、見て感情移入が容易い。それだけ主張の強いモチーフである。どんなに画面や絵の具の質に拘っていても、それを奪ってしまうくらいには。だからキャラクターを見せたくないのであれば目茶苦茶に気を使わなければならない。(見せたくない奴のほうが珍しいか?)
鑑賞の敷居が低い分、消費もされやすい。お金にもなりやすく作家が意図せずとも商業的に近づいてしまう。そこでキャラクターを排すと、頼ってきたわかり易いという記号が奪わられる。奪われた状態で、それでも画面を魅力的にするのが絵の具のなせる技である。キャラクター絵画(?)にも商業的な路線とそうでない路線があるので、それはお好みで。

最近、船の絵を描いていた。武蔵美のコンクールに出していたものだ。昔から船は好きで、幼稚園や小学生の頃は船の絵ばかり描いていた。子供の絵によくある平面的な、側面から線で形を捉えているものである。モチーフを船という単体に絞ることで画面を作ることに作業量が傾く。如何に複雑にするか、モチーフはシンプルなものでモチーフの力で画面を複雑にすることは限られている。シンプルなモチーフ、少ない色彩で画面を保たせることができるかを試みていた。結果的に言えば画面を保たせることはできる。保たせる事によって結局は子供の絵を模した大人の絵になった様に思える。子供にはできない色の選択やマチエール、複雑さが入る。ちぐはぐさが生まれたが、それは意図したものでは無かった。
最近、言われたことで自分の絵が、絵を分かっている人間の絵である。みたいな。褒め過ぎやとは思う。褒めてないのも十分理解している。自分の求めているものは割と少し前の世代がやり尽くしているのは事実で、自分の行っていることが過去の物の再構築ばかりだと感じている。
そんなときはとりあえず、大きい画面でシンプルなモチーフで描く事をやってみようと考えている。まず、その段階を踏んでから保たせるということを省いてみる。絵はすぐには変わらないし、すぐに変わる事は安直に思える。ゆっくり時間をかけてじわじわと変わっていく。思考が都度変わっていく様に少し前の工程から何かを足し、引いていく。良いものは残し向いていないものは省いていく。省いたものにも何かあるかもしれない。そういうものは余裕のある時にやってみる。
追記(2023/12/16)
シンプルなモチーフを描くとか言っていたのに、結局ある程度の情報量のあるものを描いてしまったね。まぁ、今までのまとめというか、気持ちの区切りというものなのかもしれない。本当だったら、そんなんいらんのだけど。描いてしまったものは仕方ない。やるべきことを持ち越して、来年へ。

『HiFiしてる?』
際限なく続く道程で、過去の再現を行う。繰り返される過程の中で少し違うものが現れては、本当に違うのかと疑問を抱く。生活を雑に、食を粗末に自分を大切にしないのはいつものことで誰かの為にでしか生活ができない。喫煙所で正しく呼吸ができている。吸える環境にいるとなんとなく吸ってしまうが、まだ20代だから、辞めなくてもいいかなと思う。だらだら生きれば、後70年くらいはあるだろう?着々と人の寿命が伸びて、そんなにすることあるんだろうか。アパートの近くの薬局は菓子パンとカップラーメンしか売っていない。コンビニまで行くのは最近が暑すぎる。無意味に手足が震えることが多くなった。自分の手足が勝手に震えてるのでイライラする。ろくなことがない。
 勢いでレンタカーで海に行く。遠くに対岸の光が見える。行こうと思えば行けるが、行ってどうするんだろうと我に返る。一人で何かして楽しかった記憶が殆どない。展示や映画、本屋を周って帰る。一人で外食して何が残る?一人で何かしている自分に酔えるならば、もっと楽しみを見いだせるのかもしれない。娯楽のはずが作業でしかない。この映画は観た、この本も読んだ。で?何なんだろう。何か自分に何か残っているんだろうか。そんでもって作品で中途半端に引用する、そういうのってすぐ分かる。なんかださいかも。いい映画、いい本、いい音楽はある。人に勧めても問題はない。自分の作るものとは違って本当に自分がいいと思えているものだから。自分が作るものは納得のいくことがない。誰だってそうかもしれないが。自分の絵はずっと嫌いで好きになりたくて新しい絵を描く。描いていれば自分の絵が、自分をかつて感動させてくれた絵になれるのかもしれない。誰かにとって自分の絵がそういう存在であれば嬉しいが、自分は自分でどう整理すればいいだろう。絵の内容やモチーフ、展示の仕方、文脈を説明しやすい様につまらない言葉でつらつらと話す。余所行きの言葉で適当に飾られたものでその場を凌いでいる。ただ、自分の絵は綺麗であって欲しい。
 ラフに、もっと簡単に全てが上手く運ぶことはない。簡単は良くないことが多い。簡単は浅くつまらない。悩み、顧みることは、まだ得ることのほうが多い。ただ漠然と悩んでいる自分に酔っているのは時間の無駄で、顧みたと思ったら何かしら手を動かす。朝起きて、ご飯を食べて、仕事でもして(バイトでもいい)、帰ってきてご飯を食べる。好きな人とセックスして寝る。そんな生活を繰り返すことで反復された作業が生まれる。安定は人をつまらなくさせる。要するに一人で考えることが減る。自分だけに割くリソースが減っていくから。安定した場所から泥沼に飛び込んでいく馬鹿は稀有で、その泥沼で溺れかけている馬鹿の方が破滅的で衝動的で煽情的で私は好きだ。



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