三千世界への旅 縄文14 世界史から見た縄文時代
前回は縄文人の世界観・価値観と、それが彼らの生活・行動でどんなふうに機能していたのかについて考えてみました。今回はそれを踏まえて、縄文人の社会がどんなものだったのかを考えてみたいと思います。
贈与が機能する社会
以前、柄谷行人の『世界史の構造』やマーシャル・サーリンズの『石器時代の経済』を紹介したときに触れたように、贈与によって霊魂を結びつけるという行為は縄文時代だけでなく、広く石器時代に見られた社会的・経済的行為です。
そこには、人間も含めた万物に精霊的な生命体が宿っているとする、アニミズムの世界観が作用しています。
現代でも人間は互いに贈り物をすることで、結びつきを確認したり強化したりします。会社どうしでも季節の挨拶や訪問の手土産としてモノを贈り合います。
現代人には自分たちや贈り合うモノに精霊や魂が宿っているという認識はありませんが、贈り物に心をこめるといった気持ちは持っているか、少なくとも理解はできるでしょう。
そこには単なる利害関係で片付けられないもの、人間の奥深くにある意識・価値観とつながっている何かがあるのかもしれません。
現代の贈答、プレゼントは個人的な付き合いや、伝統的な儀礼として残っているだけですが、精霊的な生命があらゆるものに宿っていると考えていた石器時代・縄文時代には、この魂のやり取りによる結びつきが、社会の根幹をなしていました。
石器時代と縄文時代
自分たち人類も含めて万物に精霊・魂が宿っているというアニミズムの世界観や、モノを交換するのではなく贈与することで精霊・魂の交換を行い、結びつきを生み出す社会的な行動は、石器人から人類にあったものですから、4万年前から3万年前のあいだに縄文人の祖先が日本列島にやってきたとき、彼らはすでにそうした世界観によって生きていたでしょう。
やがて1万8000年くらい前に彼らは土器を作り始め、歴史的な区分で言う旧石器時代から新石器時代に移行しました。
世界史では、旧石器時代が石器を使って狩猟採集を行う時代なのに対して、新石器時代は石器を使いながら、農耕や牧畜といった計画的な食糧生産が始まった時代と定義されています。
使用する石器も、石を石で叩いてカットして作る打製石器から、それをさらに磨いて機能を向上させた磨製石器に進化したという違いがあります。
土器を作るようになることも、旧石器時代と新石器時代重要な違いです。
農耕で計画的に食料を効率的かつ大量に生産するようになると、それを貯蔵したりするのに土器が使われるようになったのでしょう。
また、土器で煮たり炊いたり無したりするようになったことで、料理の幅が広がり、生活・文化の水準がアップしたといった変化もあったでしょう。
縄文文化の特殊性
現在見つかっている最初の縄文式土器は約1万7800年前のものとされていますが、これは世界でも突出して古い土器だと言われています。
日本以外では、世界で最も早く農耕・牧畜が始まったとされる中東のメソポタミアや、インド、中国など各地で土器が発掘されていますが、今のところ一番古いメソポタミアの土器でも紀元前7600年代から7400代、つまり古く見積もっても今から9000年くらい前のものとのことです。
中国でも黄河流域で見つかっている最古の土器は紀元前5000年から4000年、つまり今から7000年〜6000年くらい前。
最古の縄文式土器の1万7800年前というのは、それらと比べて倍以上古いことになります。
そこから縄文文化の特殊性が見えてきます。
世界史では磨製石器と土器を使用して、農耕・牧畜で食料を生産する時代を新石器時代と定義しているわけですが、縄文時代は磨製石器と土器を使用していますが、農耕・牧畜は行っていません。
じゃあ縄文時代は旧石器時代と同じ狩猟採集の時代なのかというと、クリやドングリやマメの仲間などを半ば栽培して、組織的に食料を生産していたわけですから、必ずしも純粋な狩猟採集の時代とも言えません。
縄文人のクラフトマンシップ
おそらく縄文人は日本列島の中でも、ドングリなどの木の実が大量に手に入る地域と時期に土器を作り始めたのでしょう。
気候が適度に温暖・湿潤で、農耕を行わなくても植物性の食料が大量に手に入ることで、それらを貯蔵したり、煮炊きしたり蒸したりする必要を感じたことがきっかけだったのかもしれません。
彼らはカゴや網のように、植物の繊維を編んで作る道具や、麻を編んで作る衣類も発明しています。
それらの器具は海や川で魚をとったり、手に入れた食料を運んだりするのに使われたほか、ドングリの皮をむいて水に長時間さらしてアクを抜くといった作業にも使われと考えられています。
また、彼らはウルシを採取して色付けし、土器やカゴ、網などに塗る技術も生み出しています。
道具を色付けするのは、信仰・呪術的なパワーを得るためでもあったようですが、木など植物から作る道具の防腐にも役立ちます。
植物や動物、魚介など多種多様な食料に恵まれ、衣類や道具に加工できる様々な素材にも恵まれていたことが、彼らのクラフトマンシップを育んだと言えるかもしれません。
その後、弥生時代から古墳時代にかけて、朝鮮半島や大陸から様々な勢力がやってきて、縄文人と混血することで、今の日本人が形成されていくことになるのですが、日本的な工芸のルーツは縄文人から始まっていると言えるでしょう。
大陸の変化と日本列島のガラパゴス化
前にも触れましたが、日本列島に縄文人の祖先がやってきたときは寒冷期で、地球の水分の多くが氷河として堆積し、海面がかなり低かったため、大陸と列島は陸続きだったようです。
しかし、1万8000年くらい前から温暖化が始まり、徐々に海面が上昇して、日本列島は大陸と切り離されます。
大陸から孤立したことも、日本列島に独自の縄文文化が長く続いた理由のひとつと言えるかもしれれません。土器の使用が始まった約1万8000年前から、稲作が伝わって弥生時代が始まる約3000年前まで、縄文人は独自の文化を発展させ、維持することができました。
この間、中国大陸の黄河流域ではアワやキビ、ヒエなどの栽培が始まり、やや遅れて西方からムギが伝わり、農耕・牧畜の時代に入っていきました。
中国南部では高地から稲作が長江流域とそれ以南のエリアに広がり、黄河流域とは異なる独自の文化が生まれます。
土器の製造・使用開始は縄文時代の日本列島より遅かったものの、やがて中国各地には青銅器や鉄器、陶器、ガラスなどの製造法が伝わり、技術革新が進みました。
大陸の技術革新から取り残される
農耕は組織的・効率的な生産を発展させ、人口が増加すると共に、社会の構成単位は集落から村へ、小国家、国家へと発展していきました。
日本列島でも1万数千年のあいだに縄文人なりの技術革新が行われ、地域によってはクリや豆、エゴマなどの栽培が始まり、丸木舟が作られるようになって、川や海での漁業が発達し、地域間の交流も活発になったと考えられます。
しかし、中国大陸で広大な土地に多様な文化が生まれ、東南アジアや南アジア、西アジアから様々な技術やモノがもたらされることで、加速度的に発展していったのに比べると、日本列島は暮らしやすかった分、変化もゆるやかでした。
縄文文化が土器や磨製石器を使用する新石器時代の特徴を持ちながら、世界の他の地域の新石器時代のように、穀物を効率的に育てる農耕や、野生動物を家畜化する牧畜を行わない特殊なものになったのは、このガラパゴス的な環境のためだったと考えることができます。