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【クラクラ旅日記】青森2日目 リンゴ園の最期

11月18日(金)

南北朝時代に没落した先祖の館跡


母は僕が小さい頃折に触れて、祖父母がいかに地元で愛され、尊敬されていたかという話をした。戦前から色々な果物の品種改良をして、地域に広めたので、農家から感謝されていたということらしかった。

祖父の先祖が鎌倉時代からその地域を支配していた豪族だったことも、母の一族にとっては大きなことだったようだ。

室町時代の初期、南北朝の動乱で一族が後醍醐天皇側の南朝に味方し、足利側の北朝方に敗北し没落したという話も、もう少し後になって聞かされた。

そのとき北朝方に攻められて陥落した館の跡は、平野の中の小高い丘になっていて、僕が30代になって訪ねたときも、まだそのまま残っていた。

丘は人の背より高い笹に覆われていたが、登っていくと人間の背丈くらいの石碑が並んでいて、先祖の氏名が彫られていた。江戸時代以前は一族の墓所になっていたらしい。

母によると、その土地は彼女が小さかった頃には人手に渡っていたが、買った企業が繊維工場を建てようとしたら、工事で死者が出たとか、関係者に不幸が起きたとかで、結局そのままになったという。

かつての支配者の威光は、一族が没落してもタブーのようなものとして残り、それをないがしろにすると、祟りがあるといったことだろうか?

そういう話は1970年代あたりまで日本全国でよく耳にした。


祖父母の死


祖父は僕が小学校3年のときに亡くなった。

自宅で営まれた葬儀には900人の弔問客が来た。

祖母は祖父より長生きして、僕が26歳のときに亡くなり、葬儀には祖父のときと同じくらいの参列者があったという。

それが祖母の人柄を物語っていると母は言っていた。

祖母は祖父の家と違って、幕末から明治期にかけて新潟からやってきた商家の出だった。

歴史的には新参者だったが、家の商売は成功し、財力的には祖父の家と街で双璧を成していたという。

いわばお嬢様だったのだが、それでも本家を追い出され、戦前から戦後にかけて祖父と果樹園を切り盛りし、9人の子供を産み育てた苦労は相当なものだったようだ。

苦労に愚痴ひとつこぼさず、平然と仕事をこなす彼女のことを、地域の誰もが尊敬していたと母は言っていた。


勤め人になった伯父


祖父が亡くなって、果樹園は地域で農業を請け負っている会社に委託されることになった。

果樹園で働いていた伯父は、地元のバス・タクシー会社に勤めた。

その会社の経営者は、貧しい家から裸一貫で起業した、地域の立志伝中の人物で、彼の母親はかつて僕の祖父母の果樹園から売り物にならない果物をもらって、行商で売りながら息子を育てたという。

古い価値観を引きずっていた母は、かつての小作人たちを見下していたが、そのバス・タクシー会社の創業社長のことも呼び捨てにしていた。

その価値観からすると、伯父にとってもその会社に勤めるのは屈辱的なことだったかもしれないが、時代の流れを受け入れたのだろう。

創業社長の配慮があったのかどうかはわからないが、伯父はわりとすぐ課長になった。


酔うと人が変わった伯父


しかし、彼なりにストレスはあったようだ。

一度夜に酔っ払って彼が伯母に命じて会社の上役に電話をかけさせ、家に呼びつけたことがあった。

何が不満だったのか、10歳くらいだった僕にはわからないが、伯父は長時間ネチネチと文句や嫌味を言い続け、その間上役は土下座に近い姿勢で聴いていた。

伯父はその態度も気に食わなかったのか、最後に上役を大声で怒鳴りつけた。

上役は驚いて後ろに倒れ、玄関まで這うように後ずさりして帰っていった。

子供心に僕はものすごく気まずい空気を感じていた。

上役をあんなふうに怒鳴りつけたらただじゃ済まないだろう。クビになってもしかたないんじゃないかと思った。

しかし、結果は何も起きず、伯父は勤めを続けた。

「○○おじちゃんは酔うと昔の殿様に戻っちゃうのよ」と母はおかしそうに言った。

大人の世界はわからないと、子供だった僕は思った。

今考えると、祖父も伯父も農家の経営者で、殿様ではないはずだが、商家を継ごうと、そこを追い出されて果樹園をやろうと、鎌倉時代から地域の支配者だった家の跡取りは、地元の人たちにとってある種の殿様なのだと、母は言いたかったらしい。


部品メーカーに売られた果樹園


伯父夫妻は1980年代に果樹園を売り、近くに家を新築した。

僕は30代になっていたが、母と新しい家に泊まりに行き、ついでにかつての果樹園があった場所を訪ねた。

母の話では半導体メーカーに売れられ、工場が建てられたということだったが、行ってみたら小さな部品工場みたいなものだった。

丘の果樹は伐採され、草地になっていた。

母屋や作業場や納屋があった土地は、子供の僕には広大に感じられたが、隅に小さな工場の建屋があるだけの、狭くて空虚な空間になっていた。

母屋を引き払うとき、伯父は近所の人たちを呼んで、好きな家財道具を持って行ってもらった。

集まった人たちは血相を変えて突進し、礼も言わずにすべてを持って行ってしまったという。

「まるで打ち壊しの暴徒か強盗みたいだったから、○○おじちゃんはショックを受けたみたい」と母が言った。

その人たちはかつての小作人の息子や孫たちだったのだろうか?

伯父が持っていっていいと言うから、彼らは持って行ったんだろうし、時代が変わったんだから、彼らが祖父が生きていた頃みたいに従順な下僕でなくなっていたとしても当然だという気もするが、伯父にはそれが下僕の反抗とか裏切りみたいに感じられたのかもしれない。



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