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三千世界への旅 縄文 東京郊外の縄文遺跡を訪ねて
保谷の住宅街にある縄文遺跡
暑かった11月上旬の日曜日、自転車で保谷の縄文遺跡に行ってきました。
場所は青梅街道から西武新宿線の東伏見の方へ少し入ってすぐです。
10月下旬にテレビの『アド街ック天国』の保谷特集で、竪穴式住居を復元した縄文遺跡が紹介されていて、初めて東京にも縄文遺跡があることを知りました。
メジャーな縄文遺跡と言えば、国宝の土偶、いわゆる「縄文のビーナス」が出土した長野県八ヶ岳山麓の尖石(とがりいし)遺跡とか、同じく国宝に指定されて火焔土器が出土した新潟県十日町の笹山遺跡とか、直径1メートルの栗の木の柱が並んだタワー的な木造建築の跡が見つかった青森の三内丸山(さんないまるやま)遺跡とか、寒い地方にあるというイメージが強いためか、縄文遺跡が東京の住宅街にあるというのが意外でした。
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ロード・オブ・ザ・リング的な竪穴式住居
保谷の遺跡は下野谷(したのや)遺跡と言って、公園的に整備された草地に竪穴式住居が2棟復元されていますが、元々の集落はもっと多くの住居が円形に並ぶいわゆる環状集落がふたつ合わさったかたちだったようです。
竪穴式住居と言えば草の茎で葺いた屋根を思い浮かべますが、強度を出すため草葺き屋根に土をかぶせていたという説もあるとのことで、こちらの遺跡はその状態を再現していました。
家が大地と一体化しているところが、なんだか映画『ロード・オブ・ザ・リング』に出てきた住居を連想させるせいか、ちょっと洋風な印象を受けます。
まあ、縄文時代にはまだ洋風も和風もなかったわけですから、後の時代から勝手に印象を語ってもあまり意味ないけど。
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東京は縄文遺跡だらけ
それより驚いたのは、東京にすごい数の縄文遺跡があったらしいことです。
敷地に立てられているボードに、発掘の様子や縄文時代の基礎知識的なことが紹介されているんですが、その中に東京で発掘された縄文中期の遺跡分布を示した地図があって、縄文時代の全盛期である中期だけでも何十という遺跡が見つかっているとのこと。川沿いの台地のいたるところに集落があったことがわかります。
縄文時代は15000年前の草創期から2300年前の晩期まで、一万数千年続いたとのことですが、気候が温暖化して人口が増えた中期は5000年前から4000年前くらいの1000年くらい。その期間だけで東京にこれだけの集落があったわけです。
まあ、1000年と言えばずいぶん長いわけですし、その間ずっとこれだけの集落が同時に存在したわけでもないでしょうから、数的にはこのくらい見つかってもおかしくないのかもしれません。
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縄文時代の持続可能性
もうひとつ、縄文時代が一万数千年続いたことにも、色々考えさせられます。
ネアンデルタール人がユーラシア大陸で生きた三十数万年に比べれば短いのかもしれませんが、それでもけっこうな長さです。
その後の弥生時代は千数百年ですから、縄文時代の十分の一にすぎません。弥生時代の末期、卑弥呼の時代から現在までが1700年くらい。これも縄文時代に比べればごく短期間です。
短期間に人類が成し遂げた進化や発展、繁栄をすごいと感じる視点もありかもしれませんが、持続可能性という意味では、縄文人の方がすごいと言えるんじゃないかという気もします。
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ここ1〜2年、日本人と日本文化のルーツ的なことを考えながら、縄文時代と弥生時代の本をあれこれ読んでいるんですが、こうして遺跡を尋ねてみると、本だけではわからなかった色んなことが見えてきそうな気がしてきました。