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【クラクラ旅日記】青森2日目 追憶のリンゴ園つづき
11月18日(金)
年寄りのわがまま
バスは50分くらいかかって弘前に着いた。五所川原や黒石と違って広大なバスターミナルがあり、その裏手の道路で下車する。
昨日から母の実家の果樹園のことを思い出していたせいか、できれば津軽のリンゴ園を訪ねてみたかったが、黒石の高橋家住宅のカフェで話した女性客の話では、弘前の郊外にリンゴ公園というのがあって、この時期はリンゴ狩り体験などもできるという。
しかし、そういう観光客向けのリンゴ園は、今の気分に合わない気がする。
黒石の観光地化された「こみせ通り」がちょっと興醒めだったように、観光地化されたリンゴ園を訪ねてもがっかりしそうだ。
僕が訪ねてみたいのは、普通の農家の果樹園なのだが、それもただ60年以上前の母の実家のことをもっと思い出したいからであって、今の果樹園やそこで働く人に触れたいわけではない。
要するに過去を振り返りたい年寄りの、身勝手なわがままなのだ。
そんなことを考えながら、弘前で最初に訪ねようと考えていた、弘前城下の武家屋敷通りめざして歩き出す。
歩きながらずっと母の実家のリンゴ園のことを思い出していた。
宴会の記憶
母屋の居間は広く、囲炉裏があった。
囲炉裏があったということは板張りだったのだろう。
食事のときはそこに小さな箱状の食卓が並び、ご飯やおかず、汁物がのせられた。
台所は隣接した土間で、そこもかなり広かった。
ふだんはがらんとしていたが、果物の収穫期には手伝いのスタッフも一緒に食べるので、祖母や伯母たちは大忙しだった。
僕が行ったときは当然母もそこにいたから、家族の一員として働いていた。
一番記憶に残っているのは、板張りの今から続きの畳敷の座敷まで戸を外してひとつの広間にし、すき焼きか何かご馳走の鍋を並べて、大勢でそれを食べている光景だ。
手伝いの若者たちも参加していたから、収穫期の終わりか何か、節目の宴会みたいなものだったのだろう。
賑やかで、子供心に気分が高揚したのを覚えている。
古い身分制度の名残り
手伝いの若者たちも一緒だったということは、彼らへのねぎらいを目的とした宴会だったのだろうか。
彼らは物置の土間で寝起きしていた、かつての小作人の息子たちだ。
子供だった僕は何も感じなかったが、今思い返してみると、物置の土間に藁を敷いて寝ていた彼らと、座敷でご馳走の鍋をつついている彼らが、同じ小作人の息子たちだということに、ある種の戸惑いを感じる。
敗戦後の農地改革で自由になった小作人とその子供たちには、かつての地主である祖父のために働く義務はない。
それなりの報酬はもらっていたのかもしれないが、それでも納屋の土間に藁を敷いて寝るような泊まり込みの仕事は、自由で民主的な時代には不当あるいは侮辱的と感じてもよかったはずだ。
それでも彼らがその待遇を受け入れていたのは、古い時代の主従関係がまだ生きていたということだろうか。
今となっては誰にも確かめようがないが、収穫期の手伝いをしていた若者たちも、彼らに仕事を依頼していた祖父も、そこに里帰りしていた母も、そうしたかつての主従関係に基づく雇用形態に、何の疑問も抱いていなかったように思える。
たまに開かれる宴会は、祖父母が若者たちに示したねぎらい的な配慮だったのかもしれないが、それはおそらく江戸時代からあった地主階級の、小作人に対する気づかいや優しさと変わらない。
なぜそんな風習が、戦争に負けて社会が大きく変わった戦後の昭和まで残っていたのだろう?