三千世界への旅 魔術/創造/変革64 政治の理性と非理性
理性的な仕組みと非理性的な反応
20世紀のファシズムや、今のロシアのような、欧米先進国による支配に対する反抗は、かなりわかりやすく極端な非理性的行動を生みます。科学的・理性的・合理的なゲームでの敗北による、国民的・民族的な心の傷とか不安といったものが、非理性的でネガティブな価値観・感情へと転写され、ナショナリズム、民族主義、人種差別、少数民族への憎悪、他国への侵略や大量殺戮につながるといったことが起きるわけです。
科学的・理性的・合理的なゲームの結果が転写されて、非理性的な感情を生み出すというのは、一見不可解に思えるかもしれませんが、そもそも科学的・理性的・合理的な考え方や仕組みはゲームの道具や手段でしかなく、ゲームをやっている人間の意識、特に国民・民族などの集合的な意識は、非理性的な衝動や意欲、感情によって動いていますから、ゲームの結果から生まれるのはポジティブであれ、ネガティブであれ、非理性的な感情です。
ただ、ゲームの勝者でいられるうちは、感情は得をしている喜びとか、自分たちの考えは正しいという信仰的な思い込みといったポジティブなものですから、他国や他民族を憎んだり、戦争を仕掛けたり虐殺したりしようと考えることもなく、あまり問題は起きません。
問題が起きるのは、ゲームの結果がネガティブになった人たちや国や民族の場合です。
科学的・合理的・理性的なゲームの敗者・弱者が、非理性的な行動に走り、先進国から邪悪な勢力と見られてしまうのはそのためです。
先進国の非理性
もちろん、欧米先進国もゲーム全体のあらゆる局面で完璧な勝利をあげ続けるわけにはいきません。自分たちが不利になったときにはけっこう非理性的で邪悪なことをやります。
19世紀からフランスに植民地支配されていたベトナムが独立しようとしたとき、アメリカが圧倒的な軍事力で潰そうとし、残酷な大量殺戮を続けたベトナム戦争とか、中東で石油の安定的確保のために行った欧米的ゲームの押し付けや、その反動で生まれたイランやアフガニスタンなどのイスラム原理主義勢力やテロ組織との戦い、イラクを舞台とした様々な策謀と戦争などがそうです。
また、欧米先進国は太平洋戦争の真珠湾攻撃とか、911の同時多発テロとか、自分たちの領土が攻撃され、死者を出したときは、逆上して過剰なくらい感情的な報復に出ます。日本の主要としで数百万の一般人が殺された空爆、核兵器の使用、たいした証拠もないまま行われたイラクやアフガニスタンへの攻撃などは、パニックに陥ったアメリカ人の非理性が生み出した狂気的な行動の例です。
また、欧米の国内でも、新興国の格安な製品との競争におびやかされている産業や、経済発展から取り残された地域の人々は、やはり自分たちを被害者だと感じていて、ストレスや不満を蓄積させた結果、ドナルド・トランプや共和党右派の政治家のような非理性的とポピュリストを支持して、アメリカを理性的なゲームから脱線させようとしています。
科学的・理性的・合理的な考え方や仕組みは、一応グローバルな共通ルールとして機能していますが、それはある意味建前にすぎず、水面下では非理性的な、欲得ずくの戦いが繰り広げられています。
それが世界、リアルポリティクスというものだと、多くの大人は言うでしょう。つまり、そういうことを言うときの彼らは資本主義経済や自由主義のグローバル社会を運営するための、科学的・理性的・合理的な考え方や仕組みが、富や権力をめぐる闘争の手段、ゲームのルール、建前に過ぎないとわかっているのです。
ファシスト国家の理性
視点を変えると、欧米先進国から非理性的と見做される軍国主義の国や強権的支配の国も、国家や軍はそれなりのルールによって運営されていますし、科学技術も導入されていて、それを活用していますから、科学的・理性的・合理的な部分があるということになります。
ナチス・ドイツは科学技術において当時世界の最先端でしたし、国家や組織の運営も秩序だっていて、そこには理性的・合理的な判断が働いていました。何度か触れましたが、そもそもナチスが権力を握ったのは、選挙によってであり、イタリアのムッソリーニによるファシスト政権の首都進軍やスペインのフランコ政権のクーデターのように、暴力的・超法規的な手段で政権を奪取したわけではありません。
非理性的だったのは、ナチスの思想です。ドイツ民族を世界の頂点に位置付けて、全世界を支配する資格があると考えたり、ユダヤ人を有害な劣等民族と位置付けてこの世から抹殺しようとしたのは、正気の沙汰ではありません。
つまり、基本な考え方が非理性的で不合理でも、手段としての考え方や仕組みは科学的・理性的・合理的であるといったことがあり得るわけです。
非理性・不合理は、自分たちを絶対的な正義であると思い込むところから生まれます。手段・道具にすぎない科学的・理性的・合理的な考え方や仕組みを、自分たちの絶対的な正義の根拠と考えるのも非理性的で不合理です。
グローバル化した今の世界で、科学的・理性的・合理的な考え方や仕組みに基づいた運営がされていても、多くの人が飢えたり死んだり、支配や差別に苦しんだり、自然が破壊されて大規模災害を引き起こしたりと、いたるところで不合理な不幸が生まれているのは、仕組みを運営している人間・勢力の中に、科学的・理性的・合理的な仕組みは絶対的に正しいとか、その仕組みによるゲームで獲得した富や権利は勝者のものだとか、このゲームの敗者はこの仕組みに反抗することは許されないといった、非理性的・不合理な思い込みがあるからです。
そして彼ら自身がそれを非理性的・不合理だと気づいていないからです。
アジアの理性と非理性
21世紀に入って、中国という国の動きが日本のメディアで批判的に取り上げられるようになりました。
返還後の香港で欧米流の自由が抑圧されるようになったとか、新疆ウイグル自治区でイスラム教が弾圧され、国家主義的な教育、思想改造が行われているとか、習近平主席の個人崇拝や権力集中が進んでいるとか、経済成長を牽引してきたIT産業や不動産業界に対する締め付け、国家による統制が強化されているとか、南シナ海に巨大な軍事拠点を建設しているとか、アジア・アフリカ・太平洋地域を経済援助しながら、軍事的・経済的な拠点を構築しつつあるといったことが批判の対象になっています。
僕は欧米先進国の科学的・理性的・合理的とされる考え方や、自由主義・民主主義的な政治体制にすら不合理な不自由さ、息苦しさを感じるので、たぶん中国に住むのは耐えられないと思いますが、それでも欧米先進国の視点からの中国批判にも違和感を覚えるところがあります。
そのひとつは、欧米先進国の自由主義・民主主義的な価値観から見た中国の、一党独裁や国家による強権的な統制に対する批判です。
政治的な独裁体制はいろんな形態がありますが、近代以前のヨーロッパでも絶対王政とか帝政といったかたちで存在していましたから、今それ以外の地域で存在しているのは、ある意味歴史的な発展段階の違い・遅れと見ることもできます。
ヨーロッパの先進地域で経済生産が爆発的に拡大して、社会が豊かになり、その生産に関与する国民に主権が移ったのは、科学的・理性的・合理的なゲームの恩恵を受けたからであって、その恩恵が十分得られず、豊かになれない国は、秩序を維持するために、王政や軍事政権、あるいは政党による独裁政権の仕組みを必要とします。
そうした国々でも、欧米先進国のように国民の多くが経済や社会の発展をリードするようになれば、自由主義や民主主義に移行する動きは生まれてきます。経済・社会を動かす主役が、国家ではなく国民・市民になると、彼らが自由に考え、望むことを実行できなければ、経済・社会が回らなくなるからです。