勉強の時間 自分を知る試み26
見えにくい集合体の意識
近代以降の科学的・理性的・合理的な認識や思考は、あらゆるものを数学的、論理的にとらえます。
それによっていろんなことが計算でき、計画でき、経済的な事業でも、社会的・政治的な活動でも、以前よりうまくいくようになりましたが、そこにはそれを意識し、考える人間が単数か複数か、個人か集団かの区別はありません。
組織の運営も、組織自体の評価も同じ数学的・論理的な認識・思考によって行われます。
科学の中には集団心理とか集合的無意識といったことを研究する分野もありますが、その科学的手法自体は集合的意識ではなく、数学的・論理的な思考方法です。
『ベナンダンティ』のような集合的意識あるいは無意識による現象を扱う場合も、そこから生まれた現象を科学的に扱うだけで、集合的意識・無意識から見た現象、そこからその現象が生成される過程は扱われません。
そもそも学者たちは集合的意識で思考していないわけですから、扱いようがないわけですが、これはけっこう深刻な、あるいは致命的な問題じゃないでしょうか。
理性が見逃してしまうもの
たとえば国家どうしが対立を激化させて、戦争を始め、感情的になった国民が熱狂的に戦争を支持し、敵国を悪魔のように思い込んでいるといった場合、そこで何が起きているのかを、外から科学的・理性的・合理的に把握したり評価したりしても、なんの解決にもならないからです。
今回のロシアによるウクライナ侵攻の場合、外側から見るとロシアが非理性的な認識と感情で危機感を募らせ、一方的に侵略しているように思えますし、民間人を殺したり民間の住居や施設を破壊したりしているのも、それ自体は野蛮な戦争犯罪と評価することができるでしょう。
しかし、ロシアの野蛮さに怒ったりあきれたりする欧米の先進国は、今の現象を見ているだけで、すでに紹介したようなソ連崩壊からロシア人が経験してきた経済的なカタストロフ、つまり壊滅的・絶望的な状況や、そこから生まれた不安、傷ついた自尊心、欧米先進国に対する反感といったものの経緯はあまり考慮しません
ナチスや大日本帝国の軍国主義や中国共産党といったものにも、それを生み出したカタストロフがあり、そこで悲惨な経験をした国民の感情があり、強権的な体制に対する支持があったのですが、そうしたものも欧米先進国の科学的・理性的・合理的な思考は考慮しません。
自分を知らない理性
一方、欧米側の盟主国であるアメリカは、第二次世界大戦後、西側の経済を安定させるため、国連の設立や経済復興プランによって戦後の経済的・政治的な国際秩序を確立し、様々な国や地域の復興を支援しました。
日本やドイツが比較的短期間で経済復興を果たすことができたのも、こうした支援があってのことでした。アメリカとしては、かつての敵国を支援することで、国際社会の盟主として様々な国に認められるようになりました。
しかし、同時にアメリカは朝鮮半島やインドシナ半島の社会主義化は絶対に許さず、そのためには戦争も回避しませんでした。
特にベトナム戦争は、フランスの植民地支配からの独立運動として始まった紛争でしたから、どちらかというと運動を主導したベトナム労働党の方に正義はあったと思うのですが、アメリカはこのまま独立を認めてしまうと世界に社会主義革命が広がっていくという危機感を抱いて介入を始めます。
後に公開された資料では、ベトナム労働党のリーダーだったホー・チミンは、アメリカとの極秘交渉で、独立を認めてくれるなら、社会主義にこだわらないと譲歩したのですが、アメリカ側はそれを受け入れず、本格的な戦争へ突入して行きました。
先進国の独善
最初はアメリカの近代装備がものを言い、ベトナムの南半分に傀儡政権を立てて、南ベトナムを建国することができましたが、その南でもアメリカへの反発は強く、多くの国民が独立のために北ベトナムと連携して戦いました。
日本のメディアは最初のうち、彼らをジャングルに潜んでアメリカ兵を襲撃する邪悪な共産ゲリラと位置付けて報道していましたが、そのうちこのゲリラ側の善戦が伝えられるようになり、アメリカ軍はあちこちで連絡網を寸断され、劣勢に立たされるようになりました。
ベトナム側にはソ連の支援がありましたが、アメリカと比べれば軍備の差は歴然としていましたから、彼らの善戦は大多数の国民が支持していたことによるものだったと言えます。
アメリカは村を焼いたり、民間人を虐殺したり、大型爆撃機で大量の爆弾を落としたりして、一般人も含めて多くのベトナム人を殺害しましたが、独立をめざすベトナム人の団結力には勝てず、ベトナムから撤退しました。
その後アメリカではこの戦争で死んだ数万人のアメリカ兵を追悼する行事が行われ、日本でも報道されていますが、その何十倍もベトナム人を殺したことについて、アメリカ政府はいっさい謝罪も反省もしていません。
第二次世界大戦で主要都市を空爆し、最後は原爆を落として、何十万とも何百万とも言われる一般人を殺害したことについても、「戦争を終わらせるためにはしかたなかった」という立場をとっているのと同じです。
欧米先進国の科学的・理性的・理性的な思考や判断というのは、結局自分たちの立場から主観的に見たものを、客観的であるかのように思い込んでいるだけなのかもしれません。
ベトナム戦争のあいだベトナムを支援したのはソ連でした。だからベトナム戦争を正義の戦争だったと信じているアメリカ人は、邪悪な共産主義勢力と戦ったのだと信じているのかもしれません。
しかし、この戦争でベトナムの民間人を大量に虐殺したのはアメリカで、邪悪な共産主義勢力のソ連ではありませんでした。欧米先進国の科学的・理性的・合理的な視点は、そのことを見ようとしません。
国家・国民・民族の意識
こうして国家とか国民とか宗教とかにまつわる、人間の集合的な意識や行動を振り返るたびに、不思議だなと思うのは、そうした集団の枠組みが人間の意識をかなり束縛しているということです。
ほとんどの人は、争いを好まないものですし、家族や友達のあいだでは親切で愛情深い人だったりします。
個人的に誰かに危害を加えるのは、なんらかの事情で追い詰められたり、深く傷ついたりした人です。
しかし、組織・国家・民族といったものがからんでくると、個人的な事情とはまた別のことが起きます。
人間は帰属する組織・集団のルールに則って、考えたり行動したりするようになります。
個人的にはそう考えなくても、組織の決まりだからしかたなくすることもあるでしょう。組織のメンバーとして成績を上げたい意欲的な人や、組織に貢献することに喜びを感じる人は、感性も組織に合わせて変わってきて、その組織にふさわしい感じ方や考え方をするようになるといったこともあるでしょう。
国家の場合、自分が生まれつき帰属していますし、あまりにも巨大すぎて、国民としての自分をあまり意識しないかもしれません。オリンピックや国際的な対立や戦争など、国家としてのくくりを意識するのは、たいてい他の国々との戦いや対立を通じてです。
近代国家という化け物
近代国家の国民は、制度上国家の主権者ですから、それ以前の王や領主や教皇といった権力者を崇めたり、神あるいは神々を崇めたり、精霊たちと交信したりしていた民とはちがう、新しい仕組みの中で考えたり行動したりしているはずです。
近代は個人の権利とか責任が強く意識されるようになった時代ですから、以前より集合的な意識の影響力は小さくなっているはずです。
しかし、19世紀からの近代史を見るかぎり、国家という枠組みの中で、国民はけっこう熱狂的に強権政治や戦争を支持したり、民族的な憎悪や虐殺に加担したりしてきました。
発達した科学や経済、国際交流のおかげで、国家という枠組みで動く感情は、ますます厄介な、暴力的なものになってきたようにも見えます。
21世紀の対立・抗争
ファシズムは民主制が広まった時代、議会制民主主義の国々で生まれ、猛威をふるいました。
1990年代初めの東西冷戦終結後、自由主義・資本主義経済のルールによって世界が統一されたことで、一時は国家間、民族間の対立や紛争はなくなるかと思われましたが、東西という支配の枠組みがなくなっただけで、国家や地域、民族間の格差は広がり、新しい対立が生まれてきました。
多くの場合、根本は経済的な問題によるものですが、そこに国家の陰謀や疑心暗鬼が生まれ、政治的な対立にエスカレートしつつあります。
近代的なシステムにストレスを感じた地域や民族では伝統的な宗教の原理主義化、テロ組織による支配などが生まれました。これらは過去の歴史の延長線上にある現象であると同時に、人類が初めて経験する新しい現象であるとも言えます。
たとえばロシアや中国やトルコが強権的な政治体制をとっていることについて、過去の帝国の歴史を参考に、「こういう国民・民族だから、こういう政治体制になってしまうんだ」と考えることもできますが、それでは原因と結果で同じことを言っているだけで、なぜそうなるのかといいう説明になっていません。
近代国家の国民は、古代からの交換様式Aが近代でとった形態だという柄谷行人の説明は、構造分析的な感じがしますが、よくよく考えてみると、近代に起きた現象を、交換様式ABCという静止した構造に当てはめているだけで、近代の国民がどんなふうに生成されたのか、ダイナミックな動きや変化のメカニズムが語られていないという不満が残ります。