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勉強の時間 三千世界への旅/プロローグ1



科学・理性・合理性批判


これまで人類の歴史とか、人や社会や国家などを動かしている仕組みとか、その仕組みの基になっている考え方について、学んだり考えたりしたことをあれこれ書いてきましたが、ここからはもう少し具体的なことについてあれこれ考えていきたいと思います。

ここまで考えてきたことは、科学的・理性的・合理的な考え方に基づいています。少なくとも僕は、なるべく科学的・理性的・合理的な考え方で考え、書こうとしてきました。

この科学的・理性的・合理的な考え方は、いろんな人間がいろんなものを検討したり、共有したり、発展させたりするのにとても役立ちます。近代以降の人類は、この科学的・理性的・合理的な考え方や仕組みによって、一段とパワフルになり、経済や社会を発展させることができました。

しかし、「自分を知る試み」でお話ししたように、この科学的・理性的・合理的な考え方やそれに基づく仕組みは、活用する人間や組織、その使い方によって、強い者が弱い者を支配し、その利益を奪う仕組みにもなります。

科学的で理性的で合理的な考え方・仕組みだから、それに基づいているかぎり、誰がどんな使い方をしようと絶対に正しいというわけではないのです。

歴史や国家や社会についてあれこれ勉強していくうちに、このことが気になりだしたので、「自分を知る試み」は結果的に、この科学的・理性的・合理的な考え方や仕組みに対する批判、再検討の試みになりました。



非理性的なものの価値


科学的・理性的・合理的なものを批判・再検討していくうちに見えてきたのは、非科学的・非理性的・不合理なものの機能や存在理由でした。

芸術や文学、エンターテインメントなど、実用的ではないけど人間にとって楽しく、価値があるものの領域はたくさんあります。

科学・理性・合理性が人と社会を規定する近代になって、芸術や文学、娯楽が急速に広がったのは、社会や経済の主役が王侯貴族や宗教勢力から一般市民に移ったからです。

つまり王侯貴族や宗教に囲い込まれていた文化的なものが、新しい時代の主役である一般市民に解放されたということです。

しかし、それは同時に、時代のルールが科学的・理性的・合理的になったことで、多くの人が違和感やストレス、不安に悩まされるようになり、芸術や文学、娯楽などに救いを求めるようになったということでもあります。

宗教とか古い風俗・習慣とか、それらに含まれる信仰や迷信といったものも、非科学的・非理性的・不合理なものですが、こうしたものもかたちや機能を変えながら生き残りました。

宗教を心の支えとして生きる人は今でもたくさんいますし、祭りや地域の伝統行事なども、近代化の中で衰退したものもありますが、多くの伝統行事が今でも行われています。



科学からはみ出してしまうもの


科学的・理性的・合理的なものへの批判から見えてきたのは、こうした科学的・理性的・合理的でないものが人間にとって重要なのではないかということでした。

マルクス・ガブリエルが『なぜ世界は存在しないのか』の後半で、芸術・文学・宗教について詳しく語っていますが、それは科学的に解明できる領域だけでなく、科学で割り切れない領域というのがたくさんあり、そこには科学的・理性的・合理的な考え方ではとらえられない豊かな世界があるからです。

マルクス・ガブリエルは、科学至上主義に陥って衰弱してしまった人間の哲学的な意識領域を再活性化するために、こうした領域と人間の在り方を再検討したのでしょう。

もちろん科学的な考え方でも、自然科学だけでなく、いわゆる人文科学、社会科学の領域として、宗教や芸術や文学や伝統的な習俗・文化を研究することはできますし、それは学術的な研究として価値があります。

しかし、そうした文化的な領域をいくら科学的・理性的・合理的に研究して、そこにはたらいている原理や法則を解明しても、それは信仰や芸術、文学が与えてくれる体験そのものではありません。

科学的・理性的・合理的な解明や説明は、色々な発見や気づきを与えてくれるので、それなりに学術的・実用的な価値がありますが、文化的な領域の価値はそうした解明や説明からはみ出してしまうものにあるのです。



三千世界へ


『なぜ世界は存在しないのか』でマルクス・ガブリエルは、科学で割り切れない神話やフィクション、信仰などの領域も、人間が意識できるかぎりは実在すると主張しています。

僕はこの考え方から仏教の三千世界を連想しました。

そして、科学では不合理とされることの中にも無数の領域が存在すること、不合理だからこそ豊かでパワフルだったりするし、それは古代から人間の世界を豊かにしてきたということに気づくことができました。

僕がこれから始めようとしているのは、こうした非科学的・非理性的・不合理な無数の領域について学ぶことです。

「自分を知る試み」の中でも、イタリア中世末期の民間信仰について紹介しましたが、こうした領域はまだまだたくさんあります。そこには近現代人が忘れてしまった不合理だけど豊かな力が隠れていたりします。

僕が今思い描いているのは、こうした無数の領域を自在に旅して回ることです。

ただ調べて紹介するだけだと、素人による学術的な研究のまねごとになってしまいそうですが、僕がめざしているのは、そうした領域を研究して知識として整理することではなく、その領域に息づいている独自の視点や価値観を掘り起こし、その視点や価値観から他の領域を眺めることです。

たとえばヨーロッパ人に征服されたり後進地域・未開人扱いされたりしている民族の視点や価値観から、欧米先進国の啓蒙主義的な科学・理性・合理性を検討したりとか。

非理性的な世界はとても広大で、そこにはたらいている原理や法則も、近現代人の常識を超えているので、そう簡単にはいかないかもしれませんが、これまで通り手探りで進んでいきますので、よかったらお付き合いください。

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