三千世界への旅 縄文20 魂の地域交流 加曽利貝塚遺跡訪問その2
多様な加曽利式土器
加曽利遺跡は「貝塚遺跡」と銘打っていることからわかるように、貝塚の展示が充実しているのですが、土器の展示もそれに劣らず充実しています。
前回の冒頭でちょっと触れましたが、関東を代表する縄文土器の様式に「加曽利式土器」の名前がついていることでもわかるように、この遺跡ではすごい量とバリエーションの土器が出土しています。
博物館の中は、去年の秋に西東京郷土資料室で見た「加曽利式土器」を思い出させる土器がたくさんあります。
加曽利式の定義がまだいまひとつ理解できていないので、いい加減なことは言えませんが、土器の文様にヘビの図柄が入っていたりして、多種多様なデザインを見ているだけでも楽しめます。
中部地方・山梨との交流とデザインの影響
全体に分厚くボリュームがあって、縁の環状の装飾が見る角度によっては、何となく恐竜とか動物の顔に見えたりする土器がありました。
去年、山梨の釈迦堂遺跡博物館や、西東京郷土資料室で見た土器を思い出させます。
中部地方の南東にある山梨エリアと今の東京・千葉エリアは隣り合わせですから、当然交流があって、土器のスタイルも影響を受けたんでしょうか。
加曽利貝塚遺跡博物館の展示によると、加曽利の土器は、山梨の勝坂式と、千葉北東部の阿玉台式、東北の大木式という、3つのエリアから影響を受けながらデザインが発展していったとのことです。
東北から伝わったデザイン
「大木式土器」というのは東北・仙台湾エリアで縄文前期から作られていた土器で、福島・茨城を経由して千葉エリアに伝わったようです。
この「大木式土器」というのは今回初めて知りました。
実は、新潟の縄文博物館で撮影した、縄文土器地図の写真を拡大して見たら、東北エリアに確かに「大木式」というのが紹介されていたので、厳密に言えばそのとき目にしてはいたんでしょうが、そのときは東北の土器まで気が回りませんでした。
この博物館には、加曽利遺跡だけでなく、もっと北東にある東金エリアの遺跡で出土した、大木式的な土器なども展示されていて、加曽利に東北・仙台湾エリアの「大木式」が福島を経て、関東へ伝わった過程がわかるようになっています。
縄文土器のデザインは地域ごとに特色があるだけでなく、地域間の交流や様式の影響が感じられるのも見ていて楽しいですね。
ヒスイと黒曜石の道
土器のデザインだけでなく、ヒスイや黒曜石などがどのような経路で加曽利に運ばれてきたかがわかる展示もありました。
ヒスイは日本海の糸魚川からおそらく長野・山梨を経由して千葉の加曽利に伝わってきたと考えられるとのこと。
黒曜石は信州の和田峠ではなく、神津島から伊豆半島・神奈川経由で伝わってきたとのことです。
膨大な貝塚の意味と魂の交流
そこでふと思ったのが、贈与はモノを贈り合うだけでなく、デザインや製作ノウハウなどソフトとモノでも良かったんじゃないかということです。
加曽利の縄文人が大量に貝を採集し、作った干貝も、他の地域の縄文人に対する贈り物として喜ばれたかもしれません。
千葉に糸魚川のヒスイや勝坂式土器のデザイン・製作方法をもたらした山梨など内陸エリアの縄文人は、干貝を喜んだでしょう。干貝は貴重な動物性タンパク源ですし、煮れば旨みのある出汁がとれます。
黒曜石をもたらした伊豆や神奈川南部、大木式土器のデザインや製作法をもたらした福島や茨城の沿岸部には貝塚がそれなりにありますが、加曽利がある今の東京湾北部の貝塚の数は圧倒的ですから、干貝をふんだんに贈ることができたでしょう。
技術とモノと魂
縄文人があらゆるものに霊魂が宿っていると考えていたとするなら、土器にも、そのデザインや製作ノウハウにも宿っていたと考えていたかもしれませんし、貝を採って加工して干貝を作る作業や、できあがった干貝自体にも霊魂が宿っていると考えたかもしれません。
縄文人にとっては、現代人から見て奇抜でエネルギッシュな土器を作ることも、大量の貝を集めて干貝を作ることも、同じように自然の霊や魂と自分たちを融合させる行為だったのかもしれません。
そう考えると、千東京湾エリアに密集する膨大な貝塚群も、全国で出土する膨大な縄文土器が私たちに感じさせるのと同じ、霊的なエネルギーの産物なんじゃないかという気がします。