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三千世界への旅 ネアンデルタール11 彼らが教えてくれること
仮想化領域と現実世界の拡張
一方、ホモ・サピエンスと融和せず、隣接する地域に暮らしていたネアンデルタール人は、日常的な世界、身近な領域では、優れた身体能力や技能で食料を確保し、生きていくことができたでしょう。
それに対して、ホモ・サピエンスは彼らより身体能力で劣りますから、仮想化領域の能力を活かして大規模な集団を組織し、社会的なシステムで食料を獲得していく必要がありました。
つまりホモ・サピエンスのシステムは、必然的に大規模化や量的拡張を推進しなければ機能しない性質のものだったわけです。それはネアンデルタール人のように同じことを維持していては存続できないということです。
身体的な弱者である彼らが現実の世界で、食物獲得・生存というフィジカルな結果を出すためには、非現実の仮想化領域を活用したシステムによる拡張が不可欠でした。
それはネアンデルタール人を基準にして考えると、強迫観念に突き動かされているようにも見えます。
また、後に国家や軍隊、帝国主義や資本主義などシステムが巨大化した時代になると、彼らつまり今の我々を含めた人類は、自分たちでもうまく制御できない非理性に支配されることになるわけですが、そもそも仮想化領域は精霊や神々、宗教など、理性で制御できない力と共に生まれたわけですから、システムの暴走を止めるには、人類がこれまでにない認知・意識領域の革命を起こし、仮想化領域の制御技術を発明するしかないでしょう。
近現代に生きる我々が、仮想化領域の制御技術を持たないどころか、その必要性すら認識していないわけですから、ネアンデルタール人がホモ・サピエンスと交配する以外の方法で存続できなかったのも無理はありません。
ネアンデルタール人から学ぶ
それでもなお、今の我々人類がネアンデルタール人から学ぶことはありそうな気がします。
ネアンデルタール人がホモ・サピエンスとの競争に負けて滅亡したのも、ホモ・サピエンスが仮想化領域を拡張しながら進化・発展を続け、地球の支配者になったのも、そこから侵略や征服、支配が生まれたのもすべては歴史の必然で、後戻りはできないと考える人たちは、そこで思考停止し、これまで通りの加速度的な拡張・進化の流れに乗っていくのかもしれませんが、それはある意味人類らしからぬ停滞であるということもできます。
人類の賢さは、仮想化領域を活用して自分の弱点や課題を把握し、それを克服するために、自分たちの考え方やあり方を根底から変えてしまうような革新ができるところにあるからです。
今、その賢さを活かすなら、何万年か続いてきたホモ・サピエンスの拡張路線を 根底から覆すような、新しい価値観を生み出すことも可能でしょう。
そのためにひとつのヒントを与えてくれるのが、何十万年も持続したネアンデルタール人のスタイル、システムであり、だからこそ彼らに興味を持つ人たちが世界的に広がっているのかもしれません。
ネアンデルタール的仮想化領域
我々人類が今、自分たちのシステムを変えるためにネアンデルタール人から学べるのはどんなことでしょうか?
そもそも仮想化領域ですべてを認識し、思考する我々が、おそらく我々のような仮想化領域を持たなかったネアンデルタール人のシステムから学ぶことは可能なんでしょうか?
レベッカ・サイクスが『ネアンデルタール』で提示したネアンデルタール人は、ホモ・サピエンスが製作・使用した石器や骨器に近いアイテムを製作・使用していたようですし、芸術や信仰、家族・親族愛などの萌芽も認められるので、これまで考えられていたよりはかなりホモ・サピエンスに近く、ある意味人類の先駆的存在と考えられます。
つまり、ホモ・サピエンスのような概念操作ができる仮想化領域ではないにしても、なんらかの知識・感性を共有できる、初歩的な仮想化領域を持ち、活用していた可能性があるわけです。
ただし、その仮想化領域は概念や情念の体系をその中で構築し、システムとして現実世界に適用するようなものではなかったでしょう。
もしそうだったとしたら、ネアンデルタール人もホモ・サピエンスのように精霊や神々のような架空の存在を体系化して共有することで、集団を家族から部族へと大規模化していったでしょうし、そうなっていたら、もはや彼らはネアンデルタール人ではなくホモ・サピエンスと呼ぶべきものになっていたでしょう。
謙虚な賢さ
今、我々がネアンデルタール人から学べるのは、そのような仮想化領域から生み出した概念で現実世界を支配しようとしないことかもしれません。
ネアンデルタール人は彼らなりの仮想化領域を、謙虚に現実とダイレクトに繋ぎ続けたことで、結果的に集団を家族・親族に限定し、活動エリアを自分たちの身体能力でカバーできる範囲に限定し、製作・活用する道具を家族・親族で作り、使えるものに限定することになりました。
それはホモ・サピエンスの拡張・進化的価値観から見ると停滞かもしれませんが、今我々人類が制御不能に陥っている加速度的な拡張・進化の欠点を考えると、ネアンデルタール人の仕組みには、持続可能な生き方をするためのヒントが隠れていると見ることもできます。
それは倫理的な言葉で言えば謙虚さのようなものかもしれません。
足るを知る
古代の中国には「足るを知る」という考え方がありましたが、これも加速度的な進化や拡張ではなく、今あるもので満足することの大切さを重視する思想です。
仏教の世を捨ててミニマルな生き方をする姿勢も、ある意味拡張路線に対する反抗であり、その正反対を指向する生き方です。
古代のアジアでは、国家や宗教による支配と、農業生産の仕組みが確立し、人類が食料の確保に困らなくなった時期に、こうした加速度的な拡張に対する反省や批判が生まれています。
ヨーロッパでも、拡張システムの史上最大の成功例と言えるローマ帝国が崩壊したとき、そのシステムに取って代わったのは、拡張路線を否定するキリスト教のシステムでした。そのシステムは抑圧的であり、中央集権的な支配構造を持っていたという点で、必ずしも人類にとってポジティブなものではなかったかもしれませんが、それでも加速度的な拡張を続けるシステムが破綻した時代にあっては、トライしてみる価値のあるもうひとつの選択肢だったと言えます。
抑圧されているものの発見と解放
最近都会から田舎への移住する人たちが増えているのも、国家や大資本・大企業による巨大なシステムではなく、人と人、人と自然の関わりが機能している地域社会で、自分たちの肉体や感性が直接的に満足を感じることができる暮らしを、多くの人たちが望むようになってきたからでしょう。
それはもしかしたら、元々人類のDNAの中にある性向なのかもしれません。
ネアンデルタール人とホモ・サピエンスが枝分かれする前から彼らの中に存在していた性向を、ホモ・サピエンスが拡張的進化のためにある時点から自分たちの中で抑圧してきたのだとしたら、何かのきっかけで我々の中にそれが吹き出してきても不思議はないわけです。
僕のような人間がネアンデルタール人に惹かれるのも、人類の中に共通して存在しているこの指向・意欲が、自分たちの中では抑圧され、隠されていて、ネアンデルタール人には自然なかたちで機能しているということに気づくからなのではないでしょうか。
ネアンデルタール人から学ぶということは、我々人類が自分たちは何者なのかを知り、自分たちの中で抑圧されている指向・意欲に気づくことなのかもしれません。
新しい選択肢、新しい幸福
もちろんそれは我々にとって容易なことではないでしょう。
人類よりはるかに限定的な仮想化領域しか持たなかったネアンデルタール人のように、仮想化領域が生み出す幻想に突き動かされることなく、現実の世界でモノと素直に向き合って生きるのは、ある意味、夢を見ないで生きることだからです。
人類は「明日は今より良くなる」とか、「この先には信じられないような成功・幸せが待っている」といった夢や期待がないと元気に生きられない動物です。だから古代宗教の始祖や賢者たちが提唱した生き方は、世捨て人的だったのです。
それでも、今多くの人が拡張路線の限界に気づき始めているとしたら、これまでとは違う新しい価値観をこれから発見・創造していくことは不可能ではないような気がします。
もしかしたら加速も拡大もしない、新しい幸福のあり方を模索し、発明していくことが、これからの人類にとって、新しい挑戦であり、そこから新しい選択肢による新しい進化が始まるのかもしれません。