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三千世界への旅 魔術/創造/変革11  ユダヤ人の「魔術」3


牧畜の民


これまで見てきたように、旧約聖書の記述からは、メソポタミアでもカナンでもエジプトでも、ヘブライ人が住んでいた土地で様々な困難を経験したことがわかります。

なぜ彼らは行く先々で迫害されたんでしょうか?

元々彼らは定住して土地を耕す農耕民ではなく、その周辺で家畜を育てる牧畜の民だったようです。

カレン・アームストロングによると、彼らが神に捧げるのが、農産物ではなく羊だったそうです。また、彼らの物語に財産として、畑のような土地が登場することはなく、登場するのは家畜です。

そこからも彼らが牧畜の民だったことがうかがえます。

牧畜の民は農耕社会の周辺で家畜に草を食べさせながら移動して暮らします。移住先に溶け込もうとしても、土地を持たない彼らはよそ者として拒絶されたでしょう。

それが移住を繰り返し、揉め事を起こし、迫害されたことと関係しているのかもしれないとカレン・アームストロングは推測しています。


農耕社会と周辺の民


メソポタミアやエジプトは、小麦を中心とした農業によって文明を築いた地域です。牧畜も行われましたが、文明の基礎は農耕でした。

農耕は定住して行うことで地域を発展させ、人口を増やし、村から小国家へ、王国へと統治の器が拡大することを可能にします。古代の王権は農耕を円滑に行うために天体の動きや気象の変化、川の水量の変化など自然の法則を研究し、組織的な労働形態を発展させました。

牧畜はこの点で、農耕とは大きく異なります。家畜の餌である牧草や穀物を育て、組織的に動物を管理する近代の牧畜と違い、古い形態の牧畜は農耕社会の周縁を移動しながら家畜を育てていました。

牧畜の民は農業を基盤とする古代国家の外縁で、農耕民のような安定した生活を送ることができない不安定な状態に置かれていました。 

「創世記」に出てくる、アブラハム率いるヘブライ人が、メソポタミアのウルからカナンの地に移住したのは、天候の異変や戦争などでその地域に住み続けにくくなったからかもしれません。

農耕民は天候不良や戦争で一時的に生産量が落ちても、その土地に住み続けることが多いものです。天候がよくなれば生産量は増えるし、戦争が終われば元の農耕を再スタートできます。戦争で支配者が変わったとしても、支配者が外から農民を連れてこないかぎり、新しい支配者のために税をおさめながら農業を続けることができます。

しかし、牧畜の民はどうでしょう? 

日頃から都市国家の周縁を移動しながら家畜を育てていたわけですから、そこに住みづらくなったら思い切って別の土地へ移住するという選択肢もありえます。


牧畜民の放浪


創世記の時代にメソポタミアのヘブライ人が移住したカナンの地には、様々な他部族が暮らしていましたが、彼らはそれらの部族と色々な軋轢を生みながらもなんとかその土地に入り込んだようです。それは牧畜の民としてだったんでしょうか? それとも彼らはより安定した農耕民として畑地を確保しようとしたんでしょうか? 

そのあたりはよくわかりませんが、約200年後にカナンの地からエジプトへ移住しているところを見ると、カナンで安定した生活を確立することはできなかったのでしょう。

さらに、エジプトでヘブライ人は牧畜さえ許されず、下層階級の労働を強いられるという屈辱を経験したようです。エジプトでのこの屈辱は400年くらい続きました。

『出エジプト記』に書かれているエジプト脱出の物語が、彼らを追跡したファラオの軍隊が海で溺死するなど、ドラマチックでエジプト側が天罰を受けた的な物語になっているのは、彼らがエジプトでの屈辱の大きさ・深さによるものなのかもしれません。


初めての国家とその滅亡


エジプトを脱出して再びカナンに戻ったヘブライ人は、紀元前10世紀頃イスラエル王国を建国します。それまでの旧約聖書に彼らが国家を建設したという話は出てこないので、このとき彼らは初めて自分たちの国家を持ったのでしょう。国を建てたということは、つまりカナンにいた諸々の部族を支配下に置いて、自分たちが統治者になったということです。

この王国は発展したようです。ダビデやソロモンといった後世に名を残す有名な王もこの頃の人たちです。しかし、エジプトやアッシリアといった大国にはさまれたイスラエルは常に外からの圧迫を受け、不安定な状態にありました。

ソロモンの死後、王国は北のイスラエル王国と、南のユダ王国に分裂。イスラエル王国は紀元前721年にアッシリアに滅ぼされ、民はアッシリアに捕囚として移送されるか、土地を追われて流浪生活を送るようになりました。

このあたりからユダヤ人の歴史は、史料で出来事や年月を特定できるような、いわゆる歴史学の時代に入ってきます。

エジプトの勢力下に入ることで存続していたユダ王国も、紀元前606年、エジプトがメソポタミアの新興勢力・新バビロニアに敗れたことで後ろ盾を失い、587年新バビロニアに征服されてしまいます。ユダ王国の民の多くはバビロンに移住させられました。

元々移住と迫害の連続だったユダヤ人の歴史は、こうして自分たちの王国を建設したのも束の間、他国からの侵略・征服・捕囚による新たな苦難の時代に入ることになります。


バビロン捕囚とユダヤ人の技能


アッシリアに連れて行かれたイスラエルの民が、自由も文化・風習の維持も許されなかったのに対して、バビロンに移住させられたユダヤ人たちは比較的自由な生活・活動を許されたといいます。新バビロニア王朝を築いたカルディア人は武力に優れてはいましたが、文化的には後進的で、自分たちもそれを自覚していたため、ユダヤ人の技能を活用しようとしたからです。

旧約聖書の『ダニエル書』は、ユダヤの若者ダニエルとその仲間たちが、バビロニアの王ネブカドネザル二世にその優秀さを認められ、宮廷で官僚として活動した経緯を描いています。

続きはまた次回。

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