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倭・ヤマト・日本23 「日本」創造の手法


隋・唐との交流・軋轢で鍛えられた倭国


天武の改革が、飛鳥時代の倭国から新しい「日本」という国を創造することだったという話から、もう一度飛鳥時代の最初にさかのぼって、政治的な事件やその背景にあった半島との関わり、倭国内で政権を動かしていた百済系勢力などについて見てきました。

飛鳥時代に起きたことについては、前にもたどりましたが、今回は倭国の国家・民族意識や、天武がめざした新しい「日本」創造が、どういう経緯から生まれたのかに焦点を当てました。

隋・唐という中国を統一した超大国が出現するまで、倭国は(百済・新羅など半島の小国家もそうですが)氏族連合によって運営される国でしたが、超大国との接触や軋轢、危機を経験することで、制度によって運営される中央集権国家へと進化したことが見えてきたような気がします。

倭国は百済の南部に拠点を置いて活動していた時期から、百済と氏族レベルでの相互乗り入れが盛んで、倭という国、倭人という民族のアイデンティティーは曖昧でした。それが、百済と一体のまま唐・新羅連合との、国家の存亡をかけた戦いに参加することにつながりました。

しかし、白村江の敗北と百済滅亡の確定で、氏族主導的な古代のシステムや、小国どうしの協力や争いに浸っていた倭国は目が覚め、この曖昧なアイデンティティーを根底から見直す必要に迫られました。

隋・唐という超大国が巻き起こした東アジアの動乱が倭国を鍛え、東アジアという当時のグローバルな環境の中で通用する国家へと進化させる方向へと向かわせたと言えるでしょう。

それは飛鳥時代を通じて倭国が進めてきた、中国の文化・システムの導入による近代化を継続しながら、それまでの曖昧な氏族連合の倭国ではなく、「日本」という新しい国家像・民族像を創造することでした。


「日本」創造の手法・テクニック


そこから壬申の乱を経て権力を掌握した天武による、新しいアイデンティティー創造が始まり、それは日本という新しい国家、日本人という新しい民の創造であり、具体的に表現されたものとしては『記紀』、特に『日本書紀』というかたちで奈良時代に結実します。

ここからは、天武・持統朝と『日本書紀』によって、どんな日本像がどんな手法で生み出されたのかについて考えていきます。

内容的には前に古墳時代と飛鳥時代の歴史について考えたときと重なりますが、今回は百済勢力の影響下にあった飛鳥時代から脱却するために、「日本」という国家・民族をどうやって創り出したかという角度から見ていくので、見えてくるものも、かなり違ってくる可能性があります。

主に「日本」創生のツールとしての『日本書紀』をベースに、そのフィクションの構造を見ていくので、天武以前に使われていなかったと思われる天皇という称号も、フィクションの構成要素として適宜使っていきます。


重要なのは王権の一貫性


『日本書紀』がどんなプロジェクトチームによって、どんなプロセスを経て成立したのかはわかりませんが、天武はまず日本人が半島や大陸から渡ってきた勢力ではなく、最初から列島に住んでいた民族であること、そこに天から降ってきた神々の子孫が、古い地上の王権を滅ぼして、この国を支配するようになったことを、明確にしなければならなかったでしょう。

古墳時代の半島・大陸から様々な勢力が渡ってきて、弥生時代末期の邪馬台国とのつながりは切れたとか、古墳時代前期に巨大な前方後円墳を築いた王朝、いわゆる倭の五王も6世紀初頭には系統が途絶え、百済系勢力によって百済からもたらされた仏教文化の導入という改革が行われたといったことはなかったことにしなければなりません。

前にも触れたように、これはフィクションですが、当時の新しい日本は、国家・民族として意思統一するためのストーリー設定を必要としていたのです。


ヤマトという国名の継承


となると、どうやって王権の継続性を語るかが重要です。

かつて邪馬台国を中心とした連合国家があったことは、中国の歴史書『魏志』に出ていますから、このフィクションの中でも邪馬台国や女王卑弥呼の系統は、天武の王権まで続いている必要があります。

そこから、国名についてややこしい問題が生じたかもしれません。

「倭国・倭人」は漢・後漢や魏、南朝の宗などによって使われてきた、伝統的な名称ですが、邪馬台国以後、古墳時代の倭人自身は、自分たちの国をどう呼んでいたのでしょう?

倭の五王に関する『宋書東夷伝』の記述には、『魏志倭人伝』のように邪馬台国や狗奴国といった、倭人側の詳しい国名が出ていないので、そのへんはよくわかりません。

『日本書紀』では、倭国の王都を倭京(わきょう)と呼んだりしていますから、自分たちの国を倭(わ)と呼ぶこともあったのかもしれませんが、これは『日本書紀』による後付けの可能性もあります。

そもそも国名というのは、外国を意識するときに使われるものですから、中国に使いを送ってやり取りするときは、中国側の呼び方に従って倭(わ)と自分たちの国を呼んだかもしれませんが、倭国内では特に国名など気にしなかったのかもしれません。


倭も大和も日本も「ヤマト」と読める


ひとつ注目されるのは、倭という名称が、中国式に「わ」と読むだけでなく、「ヤマト」と読んだりもすることです。他にもヤマトに漢字を当てたと見られる「大和」という地名ありますが、これは今の奈良県を指す国名として、中世から江戸時代まで使われていました。

この「ヤマト」がどこから来たのかというと、おそらく邪馬台国からでしょう。邪馬台は邪馬壹と旧字で書いたりしますが、魏側の当て字ですから、文字にそれほど意味はありません。

倭人側は自分たちの国名を「ヤマト」と発音していて、魏側がそれを邪馬壹・邪馬台と表記したのかもしれません。

大和も「ヤマト」の表記のひとつで、倭と同様「ワ」と発音する和に、大日本帝国みたいに大の字をつけただけなのかもしれません。

日本も、日本武尊(やまとたけるのみこと)のようにヤマトと読むこともあります。

つまり色々な漢字で表記され、「ヤマト」と発音される国名・民族名は、邪馬台国からの継続性を主張していると見ることができます。この継続性は天武とそれ以降の政権にとって、重要なフィクションの軸になります。


邪馬台国から継承された前方後円墳


ただしこの場合の継続は、血のつながりという意味の王統の継続ではなく、後からやってきた勢力が古い王権と交代した後に、自分たちの王権の正当性を主張するため、そして征服された側の古い勢力の支持を得るために、元々の国名・民族名を継承するといった意味での継続です。

倭の五王のように、古墳時代に旧弥生勢力や、海外から渡ってきた様々な勢力との戦いに勝って、統一を成し遂げた場合でも、屈服した豪族たちが一斉に反乱を起こしたら困りますから、新しく建国された国の正当性や権威を補強するため、自分たちより前に存在したヤマト/邪馬壹を、新しい連合国家の名前に使ったかもしれません。

これも前に一度触れましたが、この古墳時代前期に、邪馬台国時代の前方後円墳を継承した巨大古墳がいくつも造られたことから見ても、古墳時代前期の王権が、邪馬台国からの一貫性を掲げることで、新しい寄せ集め国家の求心力を生み出した可能性はあると思います。


天皇というフィクションの魔術


しかし天武の改革は、日本人が東アジアの各地からやってきた勢力の寄せ集めではなく、列島固有の民族であり、太古から存在していた国であるというフィクションに生命を吹き込むために、国・民族の一貫性だけでなく、もっと強力な求心力を必要としました。

その求心力を生み出す装置が天から降りてきた神々の子孫としての天皇です。

これも前に触れましたが、「天皇家は半島や大陸ではなく、天からやってきた、超越的な勢力である」というフィクションを構築することで、過去の半島・大陸勢力の寄せ集め連合の過去を消去し、天皇が倭国時代からこの国を統治してきたし、これからの日本を統治していくというシステムを創造することができたのです。

これは言葉や概念を、「モノや出来事などの現実を表す道具・記号である」と考えるようになった近代以降の人間には理解しづらいかもしれませんが、古代の人間にとって言葉は言ったり書いたりして伝えることにより、現実の世界に作用を及ぼす魔術的なものでもありました。


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