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三千世界への旅 縄文7 食べる

新潟・十日町市博物館3


進化のプロセス


十日町市博物館の展示では、縄文人がどんな器具で動物を狩ったり、魚を捕ったりしていたか、手に入れたものをどんな調理法で食べていたかなどが、わかりやすく説明されていました。

石のやじりを使った矢や、槍などを使った狩りは、旧石器時代の人類も、ネアンデルタール人もやっていたようなので、そこからそんなに進歩してないのかなという感じです。

魚をとる漁ではわりと大きな網や待受型のヤナ・柵などを使って組織的に魚を捕っていたようです。こういう図で紹介されているということは、根拠となる網とか柵の破片的なものが出土しているんでしょう。

漁業のスタイルは、近代以降にエンジン付きの漁船とかレーダーを使うようになった以外、基本的に縄文時代とあまり変わっていない気がしますが、縄文時代の漁業はネアンデルタール人や旧石器時代の人類と比べて、進化の度合いはどうだったんでしょう?

ネアンデルタール人もいろんな石器や木製器具を使って狩りをしていましたし、沿岸部では魚介類を捕っていたと言います。『ネアンデルタール』の著者レベッカ・サイクスも、ネアンデルタール人と石器時代のホモ・サピエンスの大きな違いは、器具や食料獲得の方法ではなく、宗教や芸術など仮想化領域の発展度合いにあると考えているようです。

縄文人は数十万年ほぼ同じ技術を維持したネアンデルタール人ではなく、進化を加速させてきたホモ・サピエンスですから、人類の進化のプロセスの中に位置付けることができるわけですが、彼らは旧石器時代の人類からどういう進化を遂げたんでしょうか?

彼らが日本列島の主役だった一万数千年という期間の中でも進化はあったんでしょうか?



独特な日本の新石器時代/縄文時代


一般的な区分では、土器を持たないいわゆる旧石器時代が狩猟採集の時代で、土器を作るようになった時代は、人類が定住し、農業に移行して食料を計画的に作り、保存するようになった時代、いわゆる新石器時代と言われています。しかし、日本の縄文時代は定住しているのに、主食は栗やどんぐりなどの木の実です。

栗の木を栽培したり、豆の原種をかなりたくさん収穫したりしている痕跡も見つかっているので、縄文時代の中でも農業への移行があったという見方もありますが、狩猟や漁労は旧石器時代から行われていたし、農耕時代に動物性タンパク質獲得手段として新しく登場した牧畜への移行は、縄文時代には見られません。

組織的な農業への転換は、約3000年前に朝鮮半島経由で中国からやってきたいわゆる弥生人による水田耕作によって始まったと言われていますが、「魏志倭人伝」には「牛馬なし」という記述があるので、これが本当だとすると牧畜は卑弥呼の時代、つまり弥生時代の末期である紀元3世紀あたりまで行われていなかったことになります。

前に紹介したように、「魏志倭人伝」には漁業を生業とする海の民的な人たちが出てきますから、水田耕作を営む農民と、縄文以来の漁業を続ける漁民に分化していたのかもしれません。しかし、これもあまり単純化してイメージ的に考えると、現実から離れてしまう危険があります。

かつては、水田耕作は弥生人が日本に広め、縄文人はこの変化に対応できず、山の民(つまり狩人・木こり)や海の民(漁民や舟を使った輸送業者)になったみたいなことが言われていたようですが、最近は弥生時代に沿岸地域で水田耕作をしながら、海辺に小屋などの施設を設けて、季節によって漁労をおこなっていた跡が発見されています。

縄文時代から農業が本格化した弥生時代への移行は、地域などによって色々なかたちの融合や専門分化を生みながら進行したのでしょう。


どんぐりの複雑な加工技術


縄文時代の食で、今回とても勉強になったのは、どんぐりの加工法です。

栗はただ焼いても食べられますし、煮炊きしても美味しいでしょう。

トチの実やクヌギ、シイ、ナラなどの実も、囲炉裏で焼いて食べる光景を、子供の頃どこかで見たような気がするんですが、最近読んだ縄文関係の本では、いわゆる「どんぐり」はアクが強くて、そのまま焼いたり煮たりしても食べられないとされています。

それをどうやって食べられるようにしたかというと、水につけてアク抜きをしたとその本には書いてありましたが、詳しい加工法までは書かれていませんでした。

この博物館の展示によると、縄文人はまずどんぐりを石の台の上で叩いて皮をむき、次に流水に1週間くらいつけてアク抜きをし、土器で2〜3時間煮て、そこにアク(木灰)を入れ、しばらく保存するのだそうです。

これでどんぐりの実は食べられるようになるとのことですが、縄文人はさらにこれを石皿の上ですりつぶし、粉にひいていたそうです。

縄文時代のクッキーまたはパン


ひいた粉は石皿の上で練り、小さく丸めて平たくし、石の上に油をひいて焼いたり、深い壺で蒸したりして食べていたとのことです。これを「縄文クッキー」とこの展示では読んでいますが、そういえば西東京市郷土資料室の展示でも「縄文クッキー」を紹介していました。

この食べ方は縄文時代の一般的な食べ方だったようです。

だとすると、この時代は他にご飯やパンがないわけですから、これが炭水化物を摂るための主要な食べ物、今で言う主食だった、つまりクッキーであると同時に、パンだったと言うこともできるんじゃないでしょうか。

蒸した縄文クッキーは、クッキーというより蒸しパンのようなものだったかもしれません。

ちなみに、クッキーを蒸すための深い壺は、お湯を入れる下の部分が広がっていて、その上にくびれがあり、スノコのようなものを置いて、その上に縄文クッキーをのせて蒸していたようです。

前回紹介したくびれのある黒い土器も、この蒸し器の壺のようなかたちをしています。千利休が好きそうな、幽玄で侘び寂び的な美を感じさせるこの土器が、実用的な蒸し器だったとしたら、それもまた面白いと思いました。


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