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倭・ヤマト・日本16 天智と天武の改革を比べてみると


中大兄/天智の改革


中大兄/天智は百済滅亡後も、大化の改新以来進めてきた中国的国家運営や技術革新を継続したようです。

たとえば大王に即位した668年、近江令を制定・施行したと言われています。天武の飛鳥浄御原令や、奈良時代の大宝律令の先駆けとされる、日本最古の体系的な法律です。原文は残っておらず、『日本書紀』にも記述がないので、存在自体を疑う説もありますが、彼が中大兄の時代からやってきた改革を考えると、実際に施行されたかどうかは別として、こういう法律を構想していた、あるいは制定をめざしていたことはあり得るんじゃないかと思います。

彼の死の直前には、水を落差のある複数の貯水槽に流して時間を計る水時計が完成したと『日本書紀』には記されています。



水時計は古代のバビロニアやエジプト、ペルシャ、中国にもあったとされています。時間を計測することは、国が作業などを公平に管理することにつながりますから、古代国家にとっては重要な技術のひとつでした。

この技術は飛鳥時代のどこかで、おそらく中国から導入されたのでしょうが、倭国で最初の時計を作ったところに、天智がめざしていた統治の先進性がうか変えます。

僕は奈良の明日香村を訪ねたとき、水時計とされるものの遺跡を見たことがあります。近江遷都の前から、飛鳥浄御原宮周辺で試作・実験していたのでしょう。

こうした天智の事績は、天智が百済滅亡後も中国をモデルとした改革・革新を継続していたことを物語っています。


水時計の解説
水時計の仕組み


水時計の遺跡


天武の改革


それでは天智の死後、息子の大友が継いだ近江王朝を壬申の乱で打倒した大海人/天武は、どんな改革を推進したのでしょうか?

『日本書紀』の天武の巻は上巻が壬申の乱の経緯をかなり詳しく語っているのに対して、下巻は飛鳥浄御原宮での即位から、彼が次々打ち出した政令・施策について長々と語っています。

文武官は能力に応じて進級させるとか、悪事を法に則って処罰しろとか、悪事をうやむやにするなとか、宮中や官庁内でも現場で取り締まるべしとか、法令/ルールによる統治が重視されているという印象です。

ということは、それまでは物事が法律で裁かれず、王族・豪族の権力や氏族的なつながりで処理されがちだったということなのでしょう。

親王や官僚の位階や服装に関する規定、食封(じきふ/王族・豪族・寺に与えられていた後の荘園的にあたる領地)の公への返還や管理の厳格化といった政令も目立ちますが、これらも国家による統治の公正化・厳格化をめざすものです。

天武は681年に令の編纂を命じています。いわゆる飛鳥浄御原令ですが、実際に完成し、施行されるのは686年に天武が薨御した後のことです。

ということは、それ以前にも法令があって、天武はそれに則って統治していたことになります。つまり天智の時代に体系化された近江令が実在したかどうかは別として、その時代から施行されてきたなんらかの法令はあったのでしょう。

となると、この法治国家らしい統治は、天武の大きな改革・革新というより、天智の時代から行われてきたことの継続、より徹底した推進といったものだったと考えられます。


天武の治世に唐との交流はなかった


相変わらず新羅・高句麗・百済の使節がやってきた話も頻繁に出てきますが、これに対して唐との交流を示す話は出てきません。

前にも紹介したように、この頃の半島では唐と新羅の戦争が断続的に繰り返され、最終的には唐が半島から軍を撤退させて、新羅による半島の統一が実現しています。

高句麗・百済は唐に滅ぼされたはずですが、滅亡後は唐の都督府という体制下で、現地の統治をある程度任されていました。

新羅が唐との戦いを進める過程で、これら高句麗人・百済人も、新羅の影響下で倭国と交流していたようです。

一方、唐は東北や西域、チベットなど周辺勢力との戦いに力を使っていて、新羅との戦いに投入できる戦力の余裕がなかったため、最終的に半島から撤退せざるをなくなっています。

唐と倭国の交流がなかったのは、こうした状況で唐の方に余裕がなかったからと見ることもできますが、唐との戦いで必死だった新羅からは何度となく使節が来ていますから、白村江の後のように、必要性があれば唐は使節を送ってきたでしょう。

唐から使節が来ていないのは、これまでもそんなに交流がなく、交流してもあまりメリットがないと判断したからと見ることもできます。

また、倭国側から使節を送って、交流を求めていたらまた話は違ったでしょうが、天武はそれをしなかったようです。

中国をモデルとした体制づくりを進めていた彼が、中国との交流を求めていないのは不思議な気がしますが、倭国はこの時期、半島の状況から、唐よりも新羅や旧高句麗・百済勢力と交流していて、あえて唐と距離を置いていたのかもしれません。


中国式首都建設計画と大寺院建立


『日本書紀』の記事で意外な感じがするのは、中国の首都を模した藤原京の建設計画や、そこに建立されることになる大寺院・薬師寺のことが、ほんのわずかしか出てこないことです。

藤原京については、一度建設計画が宣言されたけれど、広大な都が建設されるとなると、それまで農地だった地域に農民が稲を植えなくなってしまったから、一度計画を撤回したという奇妙な記事が出てきます。

初めて本格的な中国式首都を建設するわけですから、広大な農地を潰して都市化するのは当たり前だと思うのですが、建設工事に何年かかるかわからないから、まだ農作ができる期間は稲を作ってほしかったということでしょうか。

その後、藤原京の建設が本格的にスタートするのは天武の死後、持統の時代です。

薬師寺建立計画は、皇后(後の持統)が病気になったので、その快癒を祈願して薬師寺を建立することにしたという簡単な記事があるだけです。

薬師寺建立は持統の時代、仏教による国家統治プロジェクトとして、藤原京の建設プロジェクトと並ぶ重要プロジェクトになるのですが、天武の時代はまだ彼の理念と構想があるだけで、具体的な進展がなかったため、『日本書紀』の扱いも小さくなったということでしょうか。


帝紀・旧辞の編纂


もうひとつ、極めて重要なのに、簡単にしか触れられていないことのひとつに、帝紀・旧辞の編纂があります。

帝紀・旧辞とは古くからの王朝とその時代に起こった出来事を記録した歴史書です。これが後に『古事記』『日本書紀』になり、その後の日本という国家や日本人のアイデンティティーを決定することになるので、とても大切な出来事ですし、膨大な時間と手間を要する事業です。

しかし『日本書紀』の記述では、天武の治世10年(681年)2月に律令の改定を命じたのに続いて、3月に皇子や王族たち、政府高官たちに「帝紀および上古の諸事を記録・校定せしめた。(大山上中臣連)大嶋と(大山下平群臣)子首とがみずから筆をとって記録した」とあるだけです。

この文章だけ読むと、何だかその場で官僚2人が記録しただけで完了するような、簡単な作業みたいに思えてしまいます。

帝紀・旧辞は内乱で散逸していたので、残っている断片を集めたり、記憶している事を文章に起こしたりしながら、『古事記』と『日本書紀』が編纂されることになります。『古事記』の完成は712年、『日本書紀』は720年で、両方とも奈良時代。30年から40年くらいかかっています。


天武の改革の核心


天武が命じたときには、皇子・王族たちも、官僚たちも、この書物の編纂がどれだけ重要で、大変なことなのかわかっていなかったのかもしれません。

もしかしたら天武自身も、編纂という作業がそんなに大変で、長くかかるものだとは予想していなかったかもしれませんが、少なくともその重要性は理解していたでしょう。

自分たちが何者で、どんな経緯でこの国を治めているのかが、これによって改めて、そして新たに確定されるからです。

これまで天智と天武の改革を比較してきましたが、この国家と民族のアイデンティティーの確立こそ、天智がやらず、天武がやった改革だったと言っていいでしょう。

天武は仏教や儒教、道教など、中国経由の外来文化をバランスよく活用し、中国をモデルとした制度の導入を推進したリーダーですが、それらは飛鳥時代を通じて蘇我馬子や聖徳太子、中大兄/天智などのリーダーたちが進めてきたことの継承と見ることもできます。

帝紀・旧辞の編纂も、ただ過去に編纂されたものを再編纂しただけなら、先達の継承にすぎないものになったでしょう。

しかし、結果的に出来上がった『古事記』と『日本書紀』は、古墳時代とその末期としての飛鳥時代の倭国・倭人が、奈良時代以降の日本・日本人という新しい国家・民族になるための教則本、宗教の聖典のような本になりました。

そこから天武がめざした改革の核心が見えてくると僕は思います。

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