【クラクラ旅日記】青森 太宰治の生家「斜陽館」
10月17日(木)
観光地化した豪邸
金木駅は津軽鉄道の中でも主要駅なのか、駅舎は立派だが、降りたのは僕ひとり。
日本中どこにでもある感じの家と商店が並んでいる通りを10分弱歩くと、急に旅館みたいな建物が見えてきて、それが「斜陽館」だった。
大きな通りに面していて、向かいには観光バスが何台も停められる駐車場や、土産物店兼休憩所もある。国の重要文化財らしいので、それなりに観光客が来るらしいが、今は閑散としている。
建物の中に入ると、間口の広い土間が奥まで続いていて、入り口の右手に券売所・荷物預かり所がある。
入場料は600円と、そこそこのお値段。
地域経済と政治のための公館
土間の奥で靴を脱いで上がると、田舎の豪邸らしい和風の広々した座敷や仏間、生活空間らしい茶の間や居間など、部屋がいくつも連なっている。
洋風の階段を2階へ上がると、明治の洋館にありそうな洋間と和室がいくつか並んでいる。
この家は小作人が作ったコメを集めて出荷する集荷場だったので、奥には大きな米蔵がある。広い土間が奥まで続いているのは、大量のコメを出し入れするためらしい。
太宰の本名は津島修治という。津島家はこの地域の大地主で金融業も営んでいた。太宰の父・津島源右衛門は貴族院議員・衆議院議員を務めている。
津軽のために地元の事情や意見を国政の場に届けたり、利益を地元に持ってきたりといった活動をしていたのかもしれない。地方の資産家・実業家にはそういう人が多い。
この豪邸は単なる住まいではなく、地域経済や政治活動のための半ば公的な施設でもあったのだろう。
衰退の美学
太宰は明治末期の生まれだが、彼が作家として有名になった太平洋戦争後には、農地改革で地方の大地主は農地を手放さなければならなかった。
津島家も衰退し、この豪邸は売りに出されて、昭和25年・1950年に「斜陽館」という旅館になったとのこと。太宰の『斜陽』からとった名前なのだろうが、人気作家だったので、全国からファンがやってきたらしい。
建物がどこか旅館を思わせるのは、実際に旅館だったからなのかもしれない。
しかし旅館業は長続きしなかったらしい。
昭和51年・1976年に一度持ち主が代わり、その後平成8年・1996年には金木町が買い取って、翌々年に太宰治記念館として開業した。
地域の貴重な建築を自治体が保存している成功例なのだろう。記念館が存続していくためには、ある程度観光地化して客に来てもらう必要がある。
ただ、古い建築の魅力はただ立派だったり美しかったりとは違う何か、かつて栄華を誇った家や産業が衰退した寂しさみたいなものにもあると思うので、あんまり観光客で賑わってしまうと、魅力がその分褪せてしまうという難しさもある。
平日の夕方だからか、僕が館内を歩き回っていた間、ほかに老夫婦が一組いただけ。おかげで衰退の寂しさを味わうことができた。
それでも2階から1階に降りると、観光バスで来たらしい団体がガヤガヤと入ってきた。これも「斜陽館」存続のためにはいいことなのだが、タイミング的に彼らとぶつからずに見学できたのはラッキーだった。
衰退した母の実家
そういえば僕の母の実家も、衰退した東北の地主だった。
先祖は鎌倉時代に今の福島県の北部あたりを支配した武家で、祖父の代で23代目だったとのこと。
室町時代初期の南北朝時代に、南朝に味方して北朝方に攻められ、一度没落したらしいが、それでも江戸時代には今の伊達市エリアにかなりの農地を所有し、町で味噌や醤油の醸造業を営んでいた。
祖父は次男だったが、剣道の達人だったという長男が東京で、警察の師範として活動していたので、家業を継いだ。
ところが昭和の初めに突然、長男が福島に戻ってきて、祖父の一家を追い出してしまった。当時の法律や慣習では長男に絶大な権限があり、長男が権利を主張すればそれが通ったという。
祖父は近郊に家とわずかな農地と山を与えられ、そこで果樹園を始めた。元々果物の栽培に興味があり、若い頃に東京だか千葉だかの農学校で栽培法や品種改良を学んでいたので、祖父としてはまんざらでもなかったのかもしれない。
本家に戻った長男は、土地をどんどん売っては芸者遊びでカネを湯水のように使い、あっという間に資産を食い潰してしまったという。
崩壊する家の跡取り
ただ、僕が幼かった昭和30年代に、母に連れられて本家を訪ねたら、もう事業は畳んでいたが、町の一区画全体を占める大きな町屋だったので驚いた記憶がある。どうやら醸造業を営んでいた家は残ったらしい。
昔の醸造業は地域で大きな産業だったし、江戸時代から代々運営してきた人や組織があっただろうから、いくら跡取りの放蕩息子でも潰せなかったのかもしれない。
資産家の跡取りには、家とその家業や資産を守ろうと務めるタイプもいれば、母の実家のように放蕩で一気に家を崩壊させてしまうタイプもいて、僕が読んだ本や、地方の知り合いから聞いた話には、放蕩息子がかなり出てくる。
そういう放蕩息子は単なるバカなダメ男だったんだろうか?
母はそう考えていたようだし、僕もそう思っていたが、歳をとって人間や世の中のことがわかってくるにつれて、少し違った見方をするようになった。
跡取り息子のメンタル
そもそも跡取り息子にはかなりの重圧があり、それと戦わなければならない。
特に跡を継いだ家業が時代遅れで、将来性があまりない場合、跡取りはよほど創造的なビジネスの才能に恵まれていないかぎり、家業を惰性で回しながら衰退していくに任せるしかない。
新しいことをやろうとしても、先祖代々現場で働いてきた使用人たちや、事業を取り仕切ってきた番頭クラスが反対することもある。
そうした抵抗勢力と戦うには、ビジネスの能力だけでなく、政治的なマネジメント能力や強い使命感、チャレンジ精神、忍耐力等々がいる。
たぶん長男にはそういうものがなかったのだろう。たいていの人間はそうだ。
大正・昭和初期の時代背景
彼が東京で過ごした時代は、第一次世界大戦後の好景気を背景に民主主義が盛り上がった大正デモクラシーの時代であり、次に世界恐慌や大凶作による経済危機が起きて、社会主義思想の流行期が来た。
剣道の達人だった彼が、戦前の日本で民主主義や社会主義思想に染まることはおそらくなかっただろうが、農地や小作人を先祖代々所有・支配してきた田舎の大地主というものに対する疑問くらいは湧いたかもしれない。
しかし、当時の日本はまだ封建時代の価値観に支配されていたので、農地や小作人を解放して、地域の農業を活性化みたいなことをやろうとしたら、社会主義者・共産主義者として処分されかねなかった。
となると、酒と女で財産を蕩尽してしまうしかない。
それが跡取り息子を突き動かした崩壊への衝動だったんじゃないか。
そんな気がする。
『斜陽』と自殺衝動
太宰治は文学の才能に溢れていて、作家として成功したので、こういう家を崩壊させるような行動は取らなかったが、それでも彼は常に自分を崩壊させようという衝動に突き動かされていた作家だった。
それは近代化のために、欧米の異文化に順応しなければならない日本人が共通して感じた違和感や疎外感からくるものであり、明治時代から近代化を急いだ日本が、経済危機と共に軍国主義に傾斜し、中国や先進国との戦争に突入して、全国の都市を焼け野原にされてしまうという敗北を経験した時代から生まれたものだったかもしれない。
軍国主義から解放された喜びと同時に、軍国主義に抵抗もできず、人として無力だったという自己嫌悪や絶望が多くの日本人の中に渦巻いていた。
そういう大戦後の日本人のメンタリティーと率直に向き合ったところに、作家・太宰治の人気の秘密がある。
しかし同時に、彼の中にはもうひとつ、地方の大地主の息子としての疑問や自己嫌悪があった。
そして、彼は実家が衰退していくのを複雑な思いで見ていただろう。
結婚して子供も作りながら、結局愛人と心中してしまった彼の中には、自分と自分を生み出した家を崩壊させたいという衝動がはたらいていたのかもしれない。