マイノリティとして生まれてきたことの意味とは?
なんだかタイトルの響きが重くなってしまいましたが、じめっとしたのは苦手なので、
なるべく読みやすくポップに書いていきたいと思います。
最近、スキを押して頂いた方のnoteをまわっていたときに、
“マイノリティの詰め合わせ”という文章を見かけ、
わかる
と妙に共感したことがありました。
自分のことで言うと、
母親が発達グレー
父親がカサンドラ症候群だった(かもしれない)
姉が自殺
自分は大学卒業後5年間ひきこもり
と、もう自分と家族のことだけでマイノリティがてんこ盛りな状態です。
加えて私は身長が異様に高く名前も男性的なので、
身長・体重と名前だけだと完全に男性に間違われます。
また、セクシュアリティはデミロマンティック(深い絆を感じた人のみ恋愛感情を抱く)を自認しています。
あと、生まれつき永久歯が4本足りず、矯正したのに最近前歯がすきっ歯になってきて咀嚼力が半減し、地味に困ってます。
…最後の悩みは置いておいて、振り返ると私自身マイノリティなことだらけです。
そもそも、相当の時間とお金をかけて背水の陣で社会福祉士の資格をとったのに、全く別の仕事をしようとしている生き方自体が、なかなかのマイノリティです。
マイノリティの何がつらいかというと
“なかなか人に理解されない”ということと、それゆえに“孤独”ということです。
要するに、ありたい自分との間に距離が出来てしまう状態と言えます。
私の場合だと、どんなに可愛らしい格好をしても、“かわいい”より“かっこいい”になってしまいますし、
そもそも自分のサイズに合ったレディースの洋服を見つけることすら一苦労です。
また、普通の家に生まれて平和に過ごしたかったな…と思っても、
両親が離婚し姉を失ったという現実と理想の間には、どうしても距離を感じてしまいます。
ただ思うのは、マイノリティうんぬんはアイデンティティにはあまり関係なく、大事なのは、
どんな自分でありたいか
なのではないかということです。
マイノリティというアイデンティティは、所詮は一つのタグ付けでしかありません。
そして、それを活用するのもしないのも本人の自由です。
そもそも、マイノリティであればあるほど、理想の姿とは距離があればあるほど、
どんな自分でありたいのかを考えさせられる環境に、私たちは追い込まれます。
気質、性別、家族構成と、私たちは選べない要素を生まれながらに引き受け生きていくことになるのですが、
マイノリティであればあるほど、どんな自分として生きていきたいのか、考えることが多くなります。
自分はどんなことが望みなんだろう
何が自分にとっての幸せなんだろう
何をすれば自分の心は満たされるんだろう
と考えるきっかけになるのは、理想の自分と距離があるからこそです。
比喩的な言い方をしてしまうと、マイノリティというのはハードル走の“ハードル”のようなもので、
飛べば飛ぶほど筋力が鍛えられ、自分の行きたい方向へと自分の脚で向かっていくことができるのではないか、
と、私は思うのです。
自分はどうありたいのか問いかけるうちに、自分の行く先を照らす灯火の光は強くなり、また多少のことでその炎が揺らぐことはなくなります。
マイノリティであればあるほど、それが自分を本当のありたい自分へと導く道標になるのではないか。
そしてまた、ありたい自分がわかったとき、マイノリティであるということがマイナスではなく、自分を彩る個性へと変わるのではないか。
大事なのは、自分がマイノリティであるかないかに囚われるのではなく、
どういう自分でありたいか
どう生きていけば自分は幸せになれるのか
に焦点を当てていくことなのではないか、と感じます。
私自身まだまだどういう自分でありたいか明確にできている訳ではなく、
またその旅路の途中なので偉そうなことは書けませんが、
とりあえず、国籍や性別や年齢関係なく、時間空間に縛られずに“地球人”として好きに自由に生きることが理想なので、
それを目標にしていきたいと思います😊
ここまでお付き合い頂き、ありがとうございました🍀