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母親の過干渉の正体は“不安”と“孤独感”だった


母親の過干渉の記事を書こうと思い立ってから、なかなか書き進められず数カ月たってしまいました。

しかし最近になってから、母親の過干渉は、“母親業”を過度に引き受けていることのキャパオーバーからきているのではないか。

つまり、母親の過干渉は、

過剰な“母親業”を背負っていることに対する母親のSOSだったのではないか。

ということに、気がつきました。


よくよく考えると簡単に思いつきそうなことなのですが、過干渉な親を持つ者としてたどりつくのにかなりの時間がかかってしまいました。

ということで、今回は上記の視点から記事を書いていきたいと思います。

※大変長い記事になってしまいましたので、ご興味のあるところからどうぞ。

親の過干渉とは何か

そもそも、過干渉とは何でしょうか。

過干渉とは子供の意見を無視して、親が勝手に行動や考えを決めたり制限したりすること

【必見】過干渉と過保護の違いを簡単に解説|まなびちより引用

とあります。また、過保護と過干渉の違いとして、

過干渉は子供の意見を無視して行動や考えを極端に制限することを指し、過保護は子供の意見を尊重するものの甘やかしすぎる

【必見】過干渉と過保護の違いを簡単に解説|まなびちより引用

とあります。

簡単に言うと、過干渉とは、子どもにとって絶対的な立場である親という“権力”を使って、

子どもの欲求を否定・抑圧し、自分の思うがままにコントロールしようとすることを言います。

また、子どもが成長してある程度の判断力や主体性を持ち合わせてもなお、

子供のやることなすことに口を挟み、自分の思い通りに行動させようとします。


そんな子どもは子どもで、自分の好きにやりたいという気持ちがある一方、

親に反発することに抵抗を覚えたり、心配してくれている親に悪いからと、罪悪感を持ってしまいます。


そして、過干渉の親に育てられると、子どもは以下のように育つと言われています。

・挑戦できなくなる
・自立できなくなる
・自信をなくす

【必見】過干渉と過保護の違いを簡単に解説|まなびちより引用

つまり、他人軸で生きてしまうのです。

自分の気持ちよりも親の気持ちを優先してきてしまったので、常に他人軸で物事を考えるクセがついてしまい、

自分はいったい何がしたいのか、わからなくなってしまいます。

また、親の過干渉によって挑戦する機会を奪われることで、小さいころから自己肯定感のもととなる成功体験を積み重ねることが出来ず、

自分が望む未来を自分の力で手繰り寄せることが難しくなってしまいます。


そうすると何が起こるかというと、

うまくいかない状況に陥った時に、積極的に問題を解決していこうと思えず、自分が我慢をすればいいと受け身になってしまう

ということが起こります。


目の前に障害物があったら、まずどうやってよけようか考えてしまうのです。

もちろん、それだけ適応力が高いということでもあるのですが、

その反面、障害物をどかそう・・・・という発想を持てません。

どんなに理不尽な障害物が目の前にあって自分が不利な立場に陥っても、ひたすらによけて通ることを考えてしまう。

それはなにより、自分にはその障害物をどかす力が備わっていないと思ってしまうことが背景にあります。

そしてその思考の癖は、親からの過干渉によってもたらされてしまうのです。


なぜ母親は過干渉になるのか

ここで、なぜ母親は過干渉になってしまうのか、考えてみます。

最初に言っておきたいのですが、私は過干渉になってしまう親を責めたいわけではありません。

自称母娘問題研究家として(?)、母娘関係の本をかたっぱしから図書館から借りてきて読んでみた結果、

“過干渉な親から身を守る方法”とか、“毒親の支配から逃れる方法”のような、子どもに向けたアドバイスは多く見受けられたのですが、

どうして母親が過干渉になってしまうのか、そうだったのか!と納得できるような記述を見つけることができませんでした。(私の読んだ本の限りにおいてですが)


よく、母親が過干渉になってしまう原因として、

親自身がコンプレックスを抱えている
子育てしか生きがいがない
子どもを所有物だと思っている
夫婦仲が悪い

といったことが挙げられています。

しかし、過干渉の親を持つ者としては、なんだかすっきりしないのです。

もちろん上記のような背景があるかとは思いますが、どうもうわべだけをすくったような感覚がしてしまうのです。



これまでの経験を総合して私が思うのは、母親の過干渉の根底にはなにより、

子育てのすべての責任を負わされていることに対する母親自身の不安があるのではないか。

自分一人で子どもを立派に育てられるのか不安で押しつぶされそうになり、

それが結果として過干渉になってしまうのではないか。

ということです。



母親にとっての家庭は無償労働で搾取される“会社”だった

以前、“『母親になって後悔してる』についての記事を読んで”というタイトルで、記事を書きました。

この記事を書くにあたって、日本の女性は諸外国と比べて、いかに家事育児を担わされているかが改めてわかりました。


私は独身で出産経験もありませんが、児童福祉の現場で働いてきてわかったことがあります。


それは、人を育てることは、かなり“しんどい”ということです。


え?愛するわが子を育てることって、そんなにしんどいこと?

と思われるかもしれませんが、個人的には子育ては軍隊に入ることよりもずっと過酷だと感じます。

子育ては、精神的にも肉体的にも経済的にも、ありとあらゆる面で自分の気力体力が奪われます。

それでいて外からはそのキツさやつらさが見えづらく、他人からは理解されにくい面があります。

なぜなら、子育てには“自分の子を産み育てられることは最高に幸せなことだ”という、ポジティブで母性愛あふれるイメージがあるからです。

そしてそうしたイメージから、母親は一生懸命子どもを立派に育てようとします。

しかし、子どもというのは、愛情をいくら与えても満たされることはありません。

それはまるで、炎天下に打ち水をしたときのように、水をいくらかけてもすぐに乾いてしまうような感じなのです。

それでいて、子どもはこちらの未熟な部分を無垢な光で容赦なく照らしてきます。

子どもといると、大人として、親としての限界を容赦なく叩きつけられます。

子育ては、お腹を痛めて産んだ子どもをどれだけ愛せるのか、その人間力が試されるのです。

そんな中で、夫は仕事が忙しく多くの家庭で母親が家事育児のワンオペ状態となっている現状があります。

世の母親の多くが、

自分がちゃんとしなくちゃ
自分がしっかり育てなきゃ

そんな風にして、自分のことは後回しにして、

“母”や“妻”として、膨大なエネルギーと恐ろしいほどの忍耐力が必要とされる家事や子育てを、一手に引き受け背負っているのです。



そもそも、母親にとっては家庭が会社なのです。

家庭という“無給の奉仕が当たり前”の会社に就職している状態なのです。

日常生活の細かい雑用から、子どもの教育や家族の健康・家計管理まで、

すべて一人で担っているのが、母親なのです。

そして当然、それらは“やってくれて当たり前”の仕事と認識され終わります。


“自分が産んだ子なのだから母親が育てて当然”
“母親が自分が産んだ子の面倒をきちんと見るべき”

そういった社会からの圧力もある中で、なにより母親自身が、

家庭の内外からかけられるプレッシャーを自らに課してしまっている状態だと言えます。


母親は誰よりも尊くて誰よりもみじめである

私たちの生活は、誰かの“めんどくさい”で成り立っています。

そしてそれが家族と同居している場合、たいがいは母親の自己犠牲から来ています。

例えば、偏食しがちで手のかかる子どもに、いかに栄養バランスのいい食事をとらせるのか夢中で考えるかわりに、

夕食を作り終わると疲れ果ててしまい、なんだか疲れちゃったから自分は残り物のごはんでいいわと、残飯処理にまわる。

家庭は、そんな母親の過度な自己犠牲から成り立っています。


語弊を恐れずに言ってしまうと、そんな状態では、

母親は誰よりも自己犠牲をするという点で、家族の中で一番尊くて神聖なはずなのに、

世話をする家族の存在なくして自分の存在価値が成立し得ない点で、まるで光の存在なくては存在し得しない影のように、

非力で無力でみじめな存在だと感じます。

母親としての自分が自分の全てなのに、それが家庭内で隅々まで消費され尽くしてしまうのです。

そんな家庭という会社で一方的に搾取される状態もまた、母親の過干渉を生み出す背景にあるのではないでしょうか。


過干渉の根底には母親業への不安と孤独感があった

母親は、家族のありとあらゆる面で責任を負ってしまっています。

そんな状況でもしも子どもが言うことを聞かなかったとしたら、まわりからは、

「どういうしつけ方をしているんだ」
「自分の子どもも満足に育てられないのか」
働いていない・・・・・・くせに子育て一つきちんとできないのか」

と責め立てられてしまうことがあります。

何より自分自身が、自分に対して“どうしてもっと上手に子育てできないんだろう”と憤りを感じてしまいます。

そしてそんな状況にある母親にとっては、子どもは自由な意思を持つ一人の存在と言うよりも、

下手をしたら自分の評価をおとしめてくる“脅威”でしかありません。

そういった状態では、愛情をかけたり与えたりする余裕はなく、逆に子どもの思考や行動をコントロールしようとします。

子どもを、自分が責任を取れる範囲に収めようとするのです。

しかし母親としては、一生懸命愛情をかけて尽くしているつもりでいます。

自分なりに作りあげた“いい母親マニフェスト”に則って、“良き母”になろうと奮闘しているのです。

しかしそれが、子どもからしたら過干渉になるのです。


そんな母親の背景にはいったい何があるのかと言うと、

子育てへの不安からくる孤独感です。

“自分なんかがこの子を立派に育てられるんだろうか…。”

そんな思いから、母親は一心不乱に子どもを育てようとします。頑張っていい母親でいようとします。

それが世間の“普通の母親”だと思っているし、目指さなくてはいけない境地だと思っているのです。

しかし、母親は一人で子どものすべての責任を背負いきれず、ついつい過干渉になってしまうのです。

母親は、苦しいのです。孤独なのです。

私一人だけで子どもの面倒見切れない!!

という、やるせない思いを根底に抱えているのです。



子どもの成長は、いわば自分の親としての出来を反映する“成績表”になります。

子どもが言うことを聞かないと、まるで“母親失格”の烙印を押されたような気になってしまうので、一生懸命子どもをコントロールしようとします。

もちろんその背景には、親としての自信のなさや夫婦仲の悪さがあるのですが、母親の心理を突き詰めると、

子育てを一人で担わされていることに対する不安や孤独

があり、さらに言うのならば、自分の子を産み育てることは幸せなことだという、

世間の母性神話からくる母親への無理解

が、母親を孤立させる状況に拍車をかけているのではないかと感じます。


母親を過干渉の“呪い”から解放するために

では、どうしたら母親を過干渉の“呪い”から解放することができるのでしょうか。

母親自らが自分自身にかけてきた“呪い”に気づくことは、そう簡単なことではありません。

なぜなら母親は、『家族の世話ができて幸せ』と思っているところがあるからです。

それは決して嘘ではないのですが、過剰な母親業を請け負わされる状況では、誰だって子どもを純粋に愛せなくなります。

“母親業を引き受けることは、母親自身が望んでいることなのだ”
“自ら進んで母親業を引き受けているのだから、不満などあるはずがない”

そう思うことは、とても危険なことなのです。



ここで重要になってくるのが、母親に感謝をするということです。

母親以外の家族一人ひとりが、自分の生活は誰かの“めんどくさい”で成り立っていることを忘れないこと、

特に夫として、自分が産んだ子なんだからきちんと子育てすべきと、妻に良き母像を押し付けないこと、

まずはこれらを自覚する必要があります。

何より母親自身が、過度な自己犠牲が家庭内での自分の立場をおとしめてしまっていることに気づく必要があります。

そして、

良き母にならなければと自分を追い込んでも、結局誰も幸せにはなれないということを自覚する必要があるのです。



何かをしてもらって感謝をしない行為は、奪う行為に等しいと言われます。

母親が勝手にやったことだとしても、それを受け入れるのならば「ありがとう」と感謝をする。

家族優先で行動する母親に、ついつい甘えてしまわないようにする。

とにかく、まず母親に対して感謝をすることが重要だと感じます。

そして、母親からの過干渉を感じたら、以下のセリフを伝えます。

お母さん、私のことを心配して言ってくれてるんだね。
ありがとう。でも、もう私は平気。
お母さんが今まで愛情をかけて育ててくれたから、もう一人でもやっていけるよ。私はもう何が起きても自分の力で乗り越えていけるよ。


干渉してくる母親は、実は子どもが怖いのです。

子どもは、自分に対して親失格の烙印を押してくる存在だからです。

母親というアイデンティティに依存していればいるほど、子どもの評価が自分の存在価値を脅かすものになります。

母親は実は心の奥底では、自分は我が子にとって良い親でなかったのではないか、という不安な気持ちでいっぱいなのです。

もちろんこれは、話が通じないレベルの母親には当てはまらないかもしれませんが(そういう場合は物理的に距離を取ることが一番ですが)

上記の言葉を伝えることによって、お互いの感覚が噛み合わずすれ違いが起きている親子関係に、ある種の風穴が開くではないかと思っています。


母親を過干渉の“呪い”から解放するためのポイントとして

  • 今まで母親がしてきてくれたことの感謝をすること

  • そのおかげでこれからは一人でやっていくことができるということ

この2つを伝えることが重要だと感じます。

この2つを伝えることによって、母親が根底に抱える不安を払拭し、親として未熟だったという罪の意識を浄化させることができるのです。

そしてそれが、母親を過干渉という呪いから解放することにつながるのではないかと思っています。


おわりに

一人ひとりが自立した関係でないと、母親業は“罰ゲーム”でしかない。

いや、罰ゲームなどではなく、それはもう“苦役”でしかない。

と、私は思っています。

もちろん個人差があり一概には言えないとは思いますが、

母親は“生きがい”にはなりません。

母親でよかったと思うことはあっても、それは決して“生きがい”にはならないのです。

母親を“生きがい”にしてしまう社会は、母親を不幸にしかしません。




と、

ここまで好き勝手に書いてきましたが、私は今実家暮らしで母親に養ってもらっている身なので、母親との間できちんと“清算”ができていません。

ただ、少しずつでも母親に感謝を伝えていくことで、自立していくことができるのではないかと思っています。




私は世の子を持つ人達を尊敬しています。

公共の場で騒ぎ出す子どもに「静かにしなさい!」と怒る母親を見て、

『お母さん、全然大丈夫ですよ~!💦』と心の中で思っています。

本当は、そうやって心の中で思っているだけではなく、社会全体で子どもを育てることの大変さを誰もが共有できる環境になれば、

過干渉になってしまう母親の数も減るのではないかと感じます。


子どもは宝です。

そんな宝を産み育てる母親は、本来とても尊い存在なのです。(もちろん父親もですが)

そして、そんな尊いものがきちんと尊いものとして認められ、評価される世の中になってほしいなと思っています。






おまけ

今回、母娘問題の記事を書くにあたってきっかけとなったアメリカのドラマがあります。

刺激的な内容が多く、メンタルが落ちている人や毒親に悩まされている渦中の人にはおすすめできないのですが(私自身すべて見終わった後、衝撃が強すぎて一週間くらい気分が落ちてしまいました…)

それでも、毒親になってしまう母親の心理が巧みに描写されいて、母娘問題を考える上で大変ためになる素晴らしい作品でした。

U-NEXT(無料お試しあり)とアマプラで配信されてます。未見の方でご興味ある方はぜひ。(特に第四話のセリフは刺さりました)


ここまでお読みいただき、ありがとうございました🍀


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