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過ぎたもの、過ぎていないもの

僕は最近ジャコ・パストリアスを聴き始めている。

ベーシストではおそらく知らない者はいないであろう、ベースに革命をもたらした大ベーシストである。ベース版ジミヘンとも呼ばれることもある。

そんなベーシストのプレイを、僕は最近まで聴いたことがなかった。

彼の代表作、1976年発表のセルフタイトルのアルバムの1曲目「Donna Lee」を聴いて私は思った。

ああ、この音にあと5、6年早く出逢っていたらなあ……

それほどに彼のプレイは、ベースをほぼ触ったことのない僕にでも凄まじいと判ってしまうのだ。

実際、僕は彼のプレイを聴いて、今無性にフレットレスベースが欲しくなっている。

フレットレスベースとは、普通のベースならフレットと言われる、指版に組み込まれている銀の棒状のアレがないやつである。

フレットがないことで、音程の自由度、ビブラート奏法やスライド奏法の幅が各段に拡がり、ウッドベースに近い、より生き物っぽさが増した音が出るのである。

やはり彼の音、あのアルバムの音はフレットレスでしか出せないのである。

多分、中3頃にこのアルバムに出逢っていたら、僕は確実に初めての弦楽器はフレットレスベースを選んでいただろう。

そして高校の軽音部ではフレットレスを全然使いこなせないわポップスと相性悪いわ散々な言われようを経験したのだろう。

そんな経験、してみたかった。

しかし、それは叶わない。

今高1でフレットレスベースを買い、ジャコのコピーに励み青春を突き進んでる奴がいたとしても、

僕はそいつに嫉妬するか、もしくは後方腕組みでほほえましいと思うことしかできない。

過去を悔やみ、羨んで後悔しても、それは過ぎたものでしかないのだ。

今の僕には今まで見てきただけの環境、そして今ジャコに出逢ったという事実しかない。

ならば、これから僕ができることは一つしかない。

過ぎていないものを探すのだ。

今ジャコに出逢ったことにすら意味があるかもしれないのだ。

今まで見てきた、聴いてきたものを否定してはいけない。

今この瞬間が人生においては全てなのだ。

過去という足跡は時間という雪の上に輝いているが、それは結局証でしかない。

ならば、今が全てなのなら、過ぎていないものしかないのだ。


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