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小説『娘ふたり』後篇

 香典の集計作業はまだ少し残っていたが、それは後回しにしてノートの別のページを開いて、「……本日はお忙しいところ……故、福島芳江の葬儀にお運びいただき……」などと独り言を言いながらノートに書き取り始めた。しばらくして尚美が静かな足どりで戻って来た。
「お父さん……ちょっとお母さんと二人きりでいたいって言ってるから、残してきた……いいよね?」
「それを邪魔するほど野暮じゃないよね」
「良かった……」
 尚美は安堵のため息をついた。危篤状態の母を見舞いに病院に来た父を、にべもなく追い返した姉である。柩にすがりつく父親に対しても何をするか分からいと思っていた。
「何やってんの?」
 見ると美沙子は香典の集計ではなく、別の作業をしている。
「……明日の喪主の挨拶」
「へえ」尚美は興味を引かれて、肩ごしにノートを覗き込んだ。
「覗かないで」とそれを隠す美沙子。
「でも、そんなの決まり文句があるんじゃないの」
「それじゃ嫌だから自分で考えてるのよ」
 姉らしい選択だった。姉は真面目なくせに、というかむしろ真面目過ぎるせいか、何でも全て自分で検証してみなければ済まない質だった。マニュアル通りに進める以前に、そのマニュアルが正しいかを確かめたくなるのだ。喪主の挨拶文などは模範的な文章がすでに用意されていて、葬儀社の人間などはそれを勧める事が多い。自分で考えたものだと、感情が高ぶってしまい忘れてしまったり、最後まで言えなかったりする事が多いというのがその理由だ。
 夫の義明がやっと電話をかけて来た。美沙子は会話の内容を妹に聞かれたくなかったので、ノートを閉じて立ち上がり、部屋の隅へ行った。
「大丈夫。大分飲んでいたみたいだけど……」電話越しにまだ酔っぱらっているのが分かる。
「それで、タカシがお腹が痛いって言ってるから、薬箱から小児用の胃腸薬を出して飲ませてあげて。小児用のやつよ。分かる? えっ? 救急車なんて、そんな大げさな事しなくてもいいわよ。多分、いろいろあって緊張しているだけだと思うから……それから、良く眠れないようだったら、お湯を沸かして湯たんぽに入れて足を温めてあげて……場所は真由美が知ってるから……よろしくね」
 電話を切って大きくため息をつく。まったくこういう時は男は何の役にも立たない。酔っぱらっていて返事も覚束ないし、仕方ない後でもう一度真由美に確認するしかないか。そんなことを思いながら振り向くと、尚美がニヤニヤと笑いながら見ている。
「な、なによ?」
「お母さんって感じだね」
「おかしい?」
「別におかしいなんて言ってないじゃない」
 尚美のからかう様な口調に美沙子はムッとなった。いや、それはただのきっかけに過ぎなかった。今日、尚美がここに十年ぶりに現れ、美沙子に相談もせずに勝手に父を呼んだと知った時から、美沙子の心の中はグツグツと煮えたぎる鍋のようになっていた。感情をあらわにする事を嫌う美沙子としては、何度か理性の水をさし、鍋が吹きこぼれるのを押さえていたのだ。しかし、もうそれも無駄であった。
「あたしはね……」
 とひとこと言った途端、目の裏に熱いものが込み上げて来るのを感じた。
「あたしは……別にキャリアウーマンになんか成りたくなかったわよ。大学だって、そんなに行きたかったわけじゃないし……お父さんの期待に応えようって……そう思っていただけよ」
 美沙子の声は次第に嗚咽まじりになっていった。
「正直に言えば……あんたが羨ましかったワ」
「どこが?」
 尚美、美沙子の意外な告白に驚いて反駁した。
「あんたは……しょっちゅう友達と夜遊びして遅く帰って来たけど……あたしは学校が終わったらすぐに塾だし、塾の後もすぐに家に帰らないと、すごく怒られて……」
「それはだって……あたしは期待されてなかったからね」
「でも自由だったし……楽しそうだった」
 美沙子の目からは次々と涙が溢れた。もはや取り繕う事もなく、涙と鼻水でひどい有り様になった顔を妹の尚美に向け、何十年も心に秘めて、ついに言う事が出来なかった一言を口にした。
「……出来れば、あんたみたいな自由な高校生活を送りたかった……」
 二人の間に長い沈黙が流れた。
 美沙子に釣られて妹の尚美も泣いていた。だがそれは悲しみの涙ではなかった。あの真面目で、何事にもそつがなく、どう背伸びしても自分には並ぶ事も出来ないと思っていた姉の美沙子が、今まで自分に決して見せる事のなかった無防備な泣き顔を見せ、その心のうちを告白したことに、大きく心を動かされたからだ。
 美沙子の鼻から一筋の鼻水が糸をひいて床に落ちた。それを見た尚美は、プッと藁出した。すると美沙子も同じようにプッと笑いだし、次の瞬間、二人は爆発するように笑った。
笑い声はいつまでも続いた。互いに腹を抱え、尚美などは床に膝をつき、転げ回る始末だ。
やがて笑い疲れ、涙あ拭いながら、並んでソファに座った。尚美がお茶セットの脇にあったティッシュボックスを差し出す。数枚引き出すと美沙子は派手な音を立てて鼻をかんだ。
それを見て再び笑い、美沙子に対抗する様に尚美も派手な音を立てて鼻をかんだ。丸めたティッシュペーパーを部屋の隅にあるごみ箱に投げる。美沙子は外し、尚美は入れた。軽くガッツポーズを取る尚美。やれやれと肩をすくめ、落ちたティッシュペーパーを入れ直し、再びソファに戻って来る美沙子。二人ともやっと落ち着き、大きく息ををつくと、天井を見上げた。
「……お互い相手を羨ましいと思っていたんだね」
「そうみたいね」
「ま、隣の芝生は青いって言うからね……」
 尚美は、その一瞬の間に、姉の優秀さと大人っぽさに憧れと憎しみを抱き続けた自分の若き日を回想した。
「でもね……」
 美沙子も自分の青春時代を思い返しながら言った。
「時々、思うのよね。大学出た後、すぐに結婚なんかしないで、社会に出て働いていたら、今頃何をしているのかなあって……」
「あ、あたしも思うよ。あんなに頑張って仕事なんかしないで、いい男見つけてさっさと結婚しちゃえば良かったって……」
「あなたはまだ良いじゃない。若いんだし、いくらでも可能性があるわよ」
「あら、お姉ちゃんだって、まだまだ大丈夫よ。子育てが一段落したら、何か始めればいいじゃない」
「……その頃には求人なんてなくなってるわよ」
「誰かの下で働くのは無理よ。お姉ちゃんみたいなの、一番使いづらいんだもん」
「何よ、その言い方?」
「自分で何か始めなきゃ……あ、弁護士なんかどう? 司法試験の勉強してたじゃない。何でやめちゃったのよ」
 確か
「……お父さんが離婚して出て行った後、何もやる気がなくなっちゃったのよ」
「まあ、確かに……両親の離婚っていうのは、子供の人生を変えるよね」
 美沙子は何も答えなかった。ティシューをもう一枚手に取る、目尻に残った涙を丁寧に拭き取った。尚美は壁にかかっていた時計を見た。
「お父さん、遅いな。後でこっちに寄るって言ってたのに……」
 尚美は父の様子を見に行こうと思い、立ち上がった。
「ねえ……」と美沙子が声をかけた。
「何でお父さん、浮気なんかしたのかな」
「それは……お母さんが男の人にモテるから、焼き餅焼いたんじゃないの」
 なんてつまらない回答なんろうと思いながら、尚美にはそれしか思い浮かばなかった。
「でも、お母さんは、チヤホヤされるのが嬉しいだけで……つまり、その……」
「身体の関係はなかったって事でしょ?」
「そうよ! お父さんだって、それくらい分かっていた筈なのに」
 確かにそうだった。母は確かに男の人に人気があったし、母もそれを楽しんでいた。しかしそれは、不倫とか肉体関係とかいう生々しい言葉とはおよそ無縁な、まるで少女マンガの世界の中の出来事の様な、プラトニックなものだった。父も当然それを分かっていた筈、と尚美でさえ思う。
「その辺りは、女には分からないわよねえ」
「それに……」姉は言葉を続けた。
「その浮気相手と何ですぐに別れちゃったわけ? あなた、側にいたんだから分かるでしょ?」
「まあ、色々とあったけど……半分は私が原因かな」
 尚美はちょっと口ごもりながら、照れたような笑いを浮かべた。
「何かしたわけ?」
「そりゃあ、連れ子と後妻じゃ、いろいろあるじゃない」
「いろいろって?」
「いろいろよ」
 尚美はあまり深くそれに言及したくないようだった。美沙子も大体の想像はついたので、それ以上の追求は控えて、「……なるほどね」と矛をおさめた。
「でもね……お父さんの名誉のために言うけどね……結局、お父さんはお母さんの事が忘れられなかったのよ」
 と結論めいた事を口にした尚美は、自分だけがこの問題の真実を知っているのだと言わんばかりだ。そんな言葉で自分が優位に立とうとしても無駄だと言わんばかりに、美沙子は、「何で、そうやって美しくまとめようとするわけ?」と呆れた顔をして立ち上がり、奥の和室に戻った。もう涙の後は残っていない。
「だって、私、見ちゃったんだもん」
「何を?」
再びそっけない態度になった姉の事を気にするでもなく、自分だけが知っている宝物のありかを教える子供の様に、尚美は顔を輝かせて美沙子について来た
「夜中にね……お父さん、こっそりとお母さんの写真見てた。定期入れの中に隠してあったの」
「へえ」
「それをさ、見つかっちゃったのよ、あの人に……」
「はあ?」
 美沙子はその時の父の様子を想像した。どんな風に慌てふためき、どんな言い訳をしたのか。美沙子には手に取るように想像できた。
「それじゃあねえ……」
「ねえ!」
「まったく、しょうがないわねえ、男って奴は」
 二人は再び笑いだした。笑いながら美沙子は、父に対する愛情、父が浮気したと聞いた時の怒りと悲しみ、それを期に一家がバラバラになってしまった時の絶望感、全ての原因を作ったのが母ではないかという自分の思い込み、それらが複雑に絡み合って自分の心の奥底に鎮座していた大きな鉄屑の固まりの様なものが、少しずつその継ぎ目が外れ、バラバラになり、ゆっくりと溶解していくのを感じていた。
「あたし、ちょっと見てくるね。お父さん、こっちに連れてくるから」と尚美は立ち上がり、部屋を出て言った。
「別に連れてこなくていいよ」と美沙子は最後の抵抗を試みたが、すでに尚美の姿はなく、廊下を走って行く軽やかな足音だけが聞こえた。
「まったく、あの子ったら……」とため息をつき、再び机の上のノートに向き直ると、喪主の挨拶の続きを書き始めた。
「母は……母は誠実な人でした……誠実っていのうはちょっと違うわよねえ……」
 消しゴムで消して再び書き直す。ふと思い出して、自分の家に電話をかけると、少し眠そうだが酒は抜けた様子の夫の声が聞こえて来た。
「私だけど、タカシの様子はどう? そう、やっぱりね。じゃあ、もう落ち着いて寝ているのね。良かった。それじゃあ、あなたもゆっくり休んでちょうだい。明日も早いから……はい、お休みなさい」
 タカシの腹痛も治まり、我が家は皆、眠りにつく。時計は十一時を回ろうとしている。喪主の挨拶を書き上げて、私も早く眠らなくては……。
「母は……母は……」
 改めて母の人柄やその言葉、着ていた服、履いていた靴、好きだったもの、嫌いだったもの、時折見せる少女の様な笑顔、子供のような泣き顔、そんなものを思い返していると、その追想を打ち破るように、廊下の奥からドタドタと足音が近づいて来た。
「お姉ちゃん、大変!」
「なに?」
「お、お父さんが……」尚美は一瞬絶句し、そして泣きながら叫んだ。
「お父さんが自殺した!」
「ええっ?」
「お母さんのお棺の前で、睡眠薬、沢山飲んで……」
「で、で、で、死んだの?」
「……分からない」
「き、救急車、救急車!」
「え、あ、そうか……」
 尚美は慌てて自分の携帯を取り出して、ダイヤルしようとしたが、手が震えて取り落としてしまう。そしてそのまま床に泣き崩れた。
「何やってんのよ。いいわよ、私が呼ぶから、あんたはお父さんの側にいてやって!」
 尚美を引き起こして、再び部屋から追い出すと、美沙子は自分の携帯をつかみ、近気宇ダイヤルをした。
「まったく何なのよ、こんな時にはた迷惑な……」
 美沙子の口からは父に対する心配よりも、母の通夜の日に自殺をした事に対する、恨み言しか出てこない。やがて電話がつながった。
「……あ、救急車ですか? あ、いえ、消防署ですか? 実は母が死にまして、あ、いえ、父が倒れまして……救急車、お願いします……いえ、一台でいいです。母の分は必要ないです。母はもう死んでますから……いえ、そういう意味ではなく……実は今、葬儀の最中でして……」
 美沙子は珍しく慌てていた。

 午前二時を過ぎていた。
 美沙子は、暗い部屋の中でじっと座っていた。ノートは閉じられたままで、香典の集計も喪主の挨拶も、中途半端なままだった。ノートの脇に置いてあった携帯が鳴り出し、美沙子は急いで出る。
「……あ、尚美、どうだった?」
 救急車で病院に付き添って行った尚美からだった。美沙子も一緒に行きたかったのだが、付き添いで乗れるのは一人だけだと救急隊員に言われ、通夜だという事もあり、葬儀場に残ったのだ。
「……今、胃の洗浄が終わって、点滴打って寝てる」
「先生と話をした?」
「うん。大丈夫だってさ。明日の朝には元気になってるって……」
「でしょ? あなたが慌てるから。あれ、ただの頭痛薬じゃない。いくら飲んだって死にはしないわよ」
 父が大量に飲んだ睡眠薬だと思われていたのは、よく見ると市販の頭痛薬だった。父は頭痛持ちで薬はいつも持ち歩いていた。しかし、あんなに大量に持っていたと言うことは、いざと言う時にはそれで本当に死ぬ気でいたのだろうか。
「でも、びっくりしちゃって……まさかお父さんがあんな行動に出るなんて……」
「まあねえ……ロミオとジュリエットじゃなるまいし」
「あ、そういうつもりだったのかな」
「いい年してそれもはいでしょ……で、お父さんと話した?」
「ちょっとね」
「何か言ってた?」
「ゴメンって……謝ってた」
「そう」
「ねえ……明日の告別式には連れて行ってもいいでしょ?」
「いいけど……大丈夫なの?」
「お医者さんは大丈夫だって……お父さんも、どうしも出たいって言ってるし……お姉ちゃんさえ良ければ……」
「今さら追い返すほど、鬼じゃないわよ、私だって……」
「良かった……」
「ところでさあ……」話が湿っぽくなりそうだったので、美沙子は話題を変えた。
「告別式の喪主の挨拶、大体出来たんだけど……ちょっと聞いてくれる?」
「あ、聞く、聞く!」
 尚美の顔がパッと輝くのが受話器越しにも伝わって来た。美沙子はノートを手にとり、一つ咳払いをすると、背筋を伸ばし、声を出した」
「本日は、故福島芳江の葬儀のため、遠いところをお運び頂き、誠にありがとう御座いました」
「なるほど……」
「黙って聞きなさい」
「はい」
「母は……母は恋に生きた女性でした」
 そう。結局、母の一生を一つの文字で表すとすれば、それは「恋」という文字なのだ。若いころから色恋沙汰が苦手で、結婚相手も見合いという形で見つけた美沙子にしてみれば、結婚後も恋を夢見る母の人生は、なかなか理解しづらい生き方だった。
「若いころからその美貌は殿方たちを引きつけ、つねに母の周りには男の人が集まっていたそうです。母が結婚すると決まった時、町中の殿方たちは、涙に暮れ、やけ酒を飲み、酒屋の売り上げが倍増した、と母が申しておりました」
 美沙子の普段になく砕けた口調に、尚美は思わずくすっと笑った。そして、確かに母がそんな話をしていたなあ、と静かに追憶した。
「……そんな母もやがて二人の娘をもうけ、平凡な家庭に落ち着きました……というのは嘘です」
 尚美ブッと吹き出した。そして少なからず驚いた。あの堅物の美沙子がこんなにもユーモアのあふれる挨拶を考えるとは予想していなかったからだ。
「母の恋に生きる姿勢は、結婚しても変わりませんでした。テレビに映る芸能人はもとより、父の会社の後輩、近所の酒屋の店員さん,内装工事に来た来た職人さん,果ては私たちの学校の担任の先生に至るまで,いい男と見れば母はすぐに恋に落ちました……」
「そうそう。あったねえ、そんな事……」
 思わず小声で同意してしまう尚美。
「と言っても、もちろん、それはプラトニックな関係でしかありませんでした……それを分かっているのに、私たちの父は、なんと外に女を作ってしまったのです」
「ちょ、ちょっと、それを告別式で言うわけ?」
 気持ちよさそうに聞いていた尚美は、美沙子の脱線に思わず声をあげた。
「やっぱりマズイかな?」
「……マズイんじゃないの?」
 そんな事、考えなくてもマズイに決まってるじゃないか、と思ったがなるべく丁寧な言い方で美沙子の気持ちをなだめる事にした。美沙子は、普段、まじめ一辺倒で当たり障りのない事しか言わないのだが、逆に皆が言いづらい辛そうにしている事を何の遠慮もなしに口にしてしまう所があった。父親が浮気をして離婚話が持ち上がった時、皆が集まって家族会議の様なものが開かれた事がある。気まずい雰囲気の中、言葉が少なかった母や尚美を尻目に、「で、向こうの女とは子供を作るつもりなの?」と言い出して、皆が驚いた。「そういうつもりだったら、財産放棄してから出て行きなさい。訳の分からない子供に、この家を取られたくないからね」美沙子は悪びれることなく続けた。父親は子供の事など考えていなかったが、美沙子に言われた通り、財産放棄をして出て言った。
「分かったわよ。ここはもう一考するわね。じゃあ、その先を読むからね……」
 と尚美の忠告を受け入れつつ、先に進んだ。二人は、その後も何だかんだと言い合いをしながら、次の日に読む喪主の挨拶文を明け方近くまで考えていた。

 告別式の朝は晴天だった。葬儀は粛々と行われ、生前の母芳江を慕う男たちが多数参列した。近所の酒屋の店員さん、内装工事に来た職人さん、二人の娘のかつての担任教師、元夫義明の会社の元後輩、そしてもちろん義明本人も、美沙子の許可もあって遺族席に座ることが出来た。そんな男たちの手で担ぎ上げられたお棺が霊柩車に収まり、出棺を待つ参列者の前に、女優と見紛うばかりに美しい母の遺影を両手に持った尚美と共に、喪主である美沙子が立った。
「本日は、故福島芳江の葬儀のため、遠いところをお運び頂き、誠にありがとう御座いました」
 美沙子の凜とした声が青空の下に響いた。
「母は、恋に生きた女性でした」
 美沙子の言葉は参列者の笑いを何度も誘い、葬儀とは思えない様な穏やかな雰囲気となって行った。
「……生来、堅物な私がそんな母の生き方に違和感を持ったのは確かです。私は長い間母の生き方が理解出来なかったのです……晩年、母は闘病生活に入り、私は看病のために長い時間を母と過ごす事になりました……そんなある日、母は私がすでに結婚していることも忘れて、こんな事をいいました……あなたも早く、お父さんみたいな素敵な人を見つけて、結婚しなさい……」
 あちこちからすすり泣きが聞こえた。
「恋に生き、恋するままにこの世を去った母は、とても幸せだったのかもしれません……」
 美沙子が傍らの尚美に軽く目で合図を送ると、母の遺影を抱えたまま尚美は美沙子の脇に立った。二人の娘は、すっと顔を上げ参列者と、その向こうにある葬儀場と、その後ろにそびえる故郷の山と、そしてたなびく白い雲を見つめて、大きく息を吸った。
「本日は、ありがとう御座いました」
 二人の声が青空に吸い込まれて行った。

おわり。

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