凍りのくじら 読んでみて
主人公の理帆子の視点は、なかなか共感しづらい印象だった。素直な感想として、頭の良い高校生だと思った。さすが、進学校。
(フィクションの学校だが。)
自分も学生の時に読んでいたら、すこしだけ、まともな人間性を培えていただろうか。私も、理帆子のように光をみてみたい。
理帆子が感じていた生きづらさ。現実感が感じられない感性は、なかなか理解が難しい。今も、自分なりに解釈できているかといわれると、微妙だ。小説の中で、理帆子は自身のことを「だれかといながらも、そこに自分の存在を感じられない。」=「すこし、不在」といった。
振り返ると、私は学生など親しくないクラスメイトや、グループ(授業の班等)の時に、「少し、不在」を感じていたな。その人達と、自分の中で満足いくような話や行動がとれない。充足感がないときに、感じる。他人を相手にしている以上、思い通りにいかないし、自身が楽しさの中心にいたいなど、感じてしまう。書いていて浅ましい人間性が垣間見える。そう思うと、私は寂しがりやなんだろう。
(少しも寂しく思わない人は、いるだろうか。)
今では、高校生の時に知り合った友人二人とよく遊んでいる。親友とも呼べるだろう。その人たちはいるときは、「少し、不在」は感じない。だれにだって、「すこし不在」を感じるときはあるだろう。こと理帆子にとっては、常に「少し、不在」を感じる時点で、私は理帆子に対して共感できる部分が少ないのかもしれない。ずっと不在を感じているなんて、孤独感が強そう。私にとって、「少し、不在」を感じさせなくする親友がいる時点で恵まれているのだなと、実感する。
小説にでてくる若尾大紀。小説内では、理帆子から見た若尾の評価について長々と述べられていた。その内容には、自分に刺さることが多かったな。読んでて、意外に自尊心が傷ついた感じもする。見栄を張りがち、言葉が先行し行動がないことなど、情けない部分が自分とも重なっていた。しかし、これは誰にでも重なることがあるだろう。きっと、世の中で「優秀」と称される方々も…。
だから、自分だけと思い込まなくてもいい。しかし、大人になると他人からストレートに注意を受けることなど、学生にくらべれば機会が減る。大人になれば、直接的な行動は少なくなり、周囲から距離を置かれ次第に一人になっていく。そして、自分はその原因に気づかずに年を重ねてしまう。ああ、書いていて末恐ろしい。
今回、若尾を通しそれに気づけたのはよかった。今でも、私の中の若尾と決別できたわけではない。人間、すぐに変わることはできない。だからこそ、毎日、自分の中の若尾を受け止めながら内省を繰り返していこう。反面教師のように。目先の快楽などに埋もれない様に、生きていきたい。
まだ、読んでみた感想はいろいろ出てきそう。もう、夜おそいので今回は
ここいらで切り上げようと思う。
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