信頼関係
先日、用事がありバスに乗った。
停留所にバスが止まると、ご高齢の女性が杖をついてゆっくりとした動作でバスを降りる。
すると、停留所で待っていたのは、おそらく年齢は同じくらいだろうか。同じく杖を持った男性が女性と共にバスが向かう反対方向へ姿を消した。
個人的な意見なのだが、年々歳を取ると若い頃と違い体力の低下や免疫が弱まったせいだろう、他人には漏らさないまでも心の片隅で弱音を吐く様になった。
こういった背景もあり、パートナーが存在し老後を共に過ごすといった、ごくありふれた形が微笑ましく思う。
こういった観点から結婚制度というのは満更悪い事ではないと改めて痛感する。
これらはお互いが想い、または尊重し合い成立する。
実際の話しとはややかけ離れているが、邦題「リリーのすべて」という映画の内容が脳裏に浮かぶ。
この作品は肖像画家の妻ゲルダ・ヴェイダー演じるマリシア・ヴィキャンデルと風景画家の夫アイナー・ヴェイダー演じるエディ・レッドメインの夫婦の物語だ。
ゲルダは女性ダンサーの絵を制作中だったのだが、モデルが来られなくなりゲルダは悪戯半分の気持ちでアイナーに脚部のモデルを頼む。
それ以降、ゲルダはアイナーに女装させリリーと名付けて公の場に出て楽しむ様になる。
最初は冗談から始まった悪戯のはずが、アイナーの心の奥に潜む「もう一人の自分」に目覚める。
時が経つ毎にアイナーはリリーとして正直に生きたいとゲルダに伝える。
妻として夫を女性として迎え入れる葛藤は凄まじく、人によっては息が苦しいほど切なくなる事も想定できる。
本音を言うと全てを受け入れた訳ではないのだが、ゲルダはこの先も夫としてリリーとして今後を歩む覚悟に出る。
それにしても妻を演じたマリシア・ヴィキャンデルの演技は派手な演出が無い分、とても映えていた。
当然、主人公を演じたエディ・レッドメインは最高だ。
この人、もしかして、本当は…
と疑うほど物語に引き込まれたほどだ。
わーお!
またもや、これ以上話してしまうと…
「こんばんわ〜、はま・むら・じゅんです〜」
などとなりそうだわさ!
まぁ、軽いジャブはこの辺にしておき、形が違えどあらゆる愛し方がある。
また、すべてを誰も否定はできない。
それは当人たちが決める事なのだから。
この作品を通してもうひとつ感じた点は、弱さはいずれ強さに変わる場合も考えられると言う事だろう。
これは極端な言い回しだが、『自立』という言葉が存在する。必ずしも独りで全てを行うのではなく、隣人が手を差し伸べてこそ補える言葉であると勝手ながら思う。
そう考えると、冒頭で説明した杖を持った男女にも物語が存在し、今もなお継続しているのだろうか…
一部始終を知らないので推測でしか語ることができないが、自らの足で地を踏んだ時点で『自律』を学ぶのかもしれない。
などと、思った次第だっちゃ♪
きゃっ☆
〜追記〜 それにしても、軽々しく『ジェンダー』という言葉を流行語のように扱う政党こそ問題ありだな。
これは独り言なので作品とは無関係です。
わーお!
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