遊びの代償
今では当たり前にストーカー被害という事件や事故を耳にするが、遠い昔はそうではなかった様だ。
それを裏付ける内容を克明に描いた作品が「Play Misty for Me」邦題「恐怖のメロディ」だ。
ご存知の方も居られるだろう。
監督はクリント・イーストウッド。
この映画で監督デビューを果たした。
この処女作は、今までのクリント・イーストウッドが演じていた役柄とは多少かけ離れている。
どちらかというと、今までは骨太で正義感に燃えた英雄を演じて当然の役が多かった。
だが、この作品ではルックスが良いからモテるのは当然かも知れないのだが、女にめっぽう弱く、優柔不断気味で強い女にやられっぱなしなのだ。
いや〜ん…
てな具合で、今までのイメージを覆す内容に挑戦した事を踏まえると、クリント・イーストウッドは監督デビュー作として意欲作に挑んだのだろう。
クリント・イーストウッドの役どころを説明すると、KRLMラジオのDJデイブだ。
音楽をメインにしたDJとは違い、哲学や詩を引用した博学のある内容を紹介するのが得意だ。
そんな彼のリクエストに、常連イブリンが必ず「ミスティ」という曲をリクエストする。
本来であれば、DJとリスナーは決して交わる事がないはずなのだが、デイブが行きつけのバーに立ち寄った際の出来事だ。
見知らぬ女性がカウンター越しで異性のパートナーを待っている様子だ。
デイブはガールフレンドがいながらも、女性にめっぽう弱い性分ゆえに見知らぬ女性にモーションを掛ける。
云うなれば、俗にナンパっつう奴かな。
わーお!
で、二人は意気投合し一夜を過ごす。
デイブは後腐れのない関係を約束ができるのならばと女性に念を押す。
その女性はイブリンと名乗り、デイブは局内で「ミスティ」をリクエストする女性本人だと知る。
デイブにとっては都合の良い関係で終わるはずだったのだが、イブリンにしてみればそう簡単には行かない。
デイブが思う以上にイブリンが内に秘める愛情は肥大化する。
やがて肥大化した愛情は大胆と化し、デイブの心身共々傷つける結果を招くのであった。
デイブにしてみれば、ほんの火遊びにしか過ぎなかった情事が収拾がつかない結果となる。
たまに会うガールフレンドのトビーには本心を伝えられずにいる。
その理由には、デイブが女にめっぽう弱い事をトビーが知っているので、デイブ本人からは言いずらかったのだ。
この関係に終止符を打ちたかったデイブは何度もイブリンに別れを切り出すも、当の本人はデイブの言葉に動じる事がなかった。
このままではデイブ自身が持ち堪えられないと悟った本人は、強気な姿勢に出るのだが、感情的になるとイブリンは狂人と化し、辺り構わず暴言を吐き捨て非常に困ったちゃんに変貌してしまうものだから、デイブは既にたじろいでしまう始末。
二人の関係はよりギクシャクが増し、イブリンはデイブの後を追う様になり、行動の一部始終を観察するのであった。
一方のデイブはイブリンの行動を理解せずに、無防備な私生活を繰り返すのだった。
時の経過と共に、イブリンの感情は愛から嫉妬へと変化を遂げる。
デイブにまつわる異性は敵とみなし、辺り構わず傷つける様になる。
一旦は刑事事件として取り扱われるが、数日後にイブリンは釈放されデイブとトビーは恐怖に包まれる。
ここまでの説明でお分かりの様に、これは歴とした犯罪であり完全にストーカー被害である。
冒頭で説明したが、本来クリント・イーストウッドのイメージを先行するのであれば、ダーティー・ハリーの様な泥臭いヒーローを演じ監督を務めるのかと勝手に想像した。
だが、よくよく考えるとクリント・イーストウッド監督は映画のみならず、文学や音楽に精通した教養を持っている。
となると、近い将来を予測し、この時代では一般的ではない「ストーカー」という加害者を具現化していたのだろうか?
真相は定かではないが、デビュー作として華々しい作品として評価はされなかったが、今にして思えばすんげえ作品であると痛感の極みで胸が一杯となる。
実際この様な事件が勃発したら厄介でしかないが、現実に似た様な被害は多いと考えられる。
そういう意味でも、この作品は気軽にスルーできない問題作であると、更に勝手に太鼓判を押す作品でもあ〜る。