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聖なる12夜② 12月25日~26日

フェイスブックのRudolf Steinerのコミュニティの投稿をメモ代わりに投稿しています。

自分なりに大事と思ったところを太字にしてみました。
そして、最後に思いついたことを書きます。


第二の聖夜
12月25日~26日 水瓶座2月
ヨハネの夜。

魂の鷲はその翼で高く登り、大きな高みから振り返って自らの人生を観察する。そして今、人はカルマの法則を認識する。

●神秘: 狭くて困難な道を選ぶか、広くて容易な道を選ぶか。肉から生まれた者にとって、魂の道を見つけるのは難しい。

●バガヴァッド・ギーター: 利己的な人生か、それとも人類に捧げる人生か?

●第二の思索
クリスマスは精神的に高揚する時であるが、時として現代世界の物質主義的な考えと衝突することがある。私たちは、霊的な自己と地上的な自己を経験する微妙なバランスをとらなければならない。私たちは、霊的な自己を地上的な理解で覆い隠してしまう傾向がある。私たちの課題は、霊的自己が地上的自己を支えていることを常に認識し、両者を統合することである。

スピリチュアルな自己の目を通して私たちの人生を見ると、私たちがあらゆる困難を引き寄せているのは、私たちをより強く客観的にするという明確な目的のためであることがわかる。客観性を持ってこそ、霊的な自己、すなわち私という存在を見ることができるのだ。

キリストが地上に来られたのは、私たちの「私」を個人的に使ってもらうためであり、それこそが本当のクリスマス・プレゼントなのだ。

私たちはそれを拒絶するのだろうか? 私たちは拒絶する。他人が私たちにしたことを責めるたびに、私たちはこの贈り物を拒絶してしまう。

自分に何が起ころうと、この贈り物をより完全に経験するために引き寄せたのだと認めるとき、私たちは初めてこの贈り物を受け入れるのだ。

もし私たちが、自分の人生に起こるすべてのことに関心を持つ観察者になることができれば、キリストとともに立ち、キリストの御業を分かち合うことができる。

ルドルフ・シュタイナーがヘルベルト・ハーンに与えた十二聖夜の指示
レオナルド・ダ・ヴィンチ バブティスト・ヨハネ

DeepL.com(無料版)で翻訳しました。

https://www.facebook.com/groups/drrudolfsteiner/posts/1782205685927256/


これを読んで思い出したのがモーセの物語。

ある日「燃える柴」のなかから神に語り掛けられ、イスラエル人を約束の地(聖書中では「乳と蜜の流れる地」と言われている現在のパレスチナ周辺)へと導く使命を受ける。神は、みずからを「わたしはある者」と名乗り[5]、イスラエルの民は代々יהוה(ヤハウェ)という名前で呼ぶようにと言った。

Wikipedia モーセ https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%82%BB

「わたしはある者」の英語版は、I am that I am.です。
この言葉の訳は難しく、「私は在る」とか「私は在りてある者」とか、つまり、神は宇宙に遍在する、ただそこにあり続ける存在という意味かと思います。

私たちは、自分のことを「私」と言います。しかし、当事者しか私について「私」と言えるものはいないのですね。私があなたの代わりに「私」っていうわけにはいかない。

当たり前のような話(笑)

しかし、ここで大事なことに気づくことができます。

神は自分のことを「私」といった。
私も自分のことを「私」という。
つまり、神=私でありアナタである、自分のことを「私」と認識し「私」と言葉を発するものであればだれでも、神ということになる。

動物や植物は「私」って言わないし、私意識も持ち合わせていない。
別な言い方をすれば「私意識」=「自我」となる。

自我というのは、エゴ意識を超越する霊的自己が宿る場所でもあります。

上記にある
私たちの「私」が本当のクリスマスプレゼントである
という言葉について、瞑想するといろいろ気づけるかも。


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