形態は媒介であり、本当に観ようとしているものは、その背後にある力
美しい花など、自然の美に触れた時に、自分の中に「こわい」という気持ちになり、よく見たり観察することに抵抗感が少しあるように思う。それは、「畏敬の念」のようなものなのかもしれないと思っていた。
しかし、仏陀の教えについて読んでいる時に、ハッとしたことがあった。畏敬の念もあるかもしれないが、よく見て観察することで、目の前にある植物形態と一体化することへの抵抗感なのかもしれないという気がした。
携帯様相は諸行無常であり、いつかなくなり、そこへの愛着、執着は苦痛を伴う。それが嫌だから「こわい」という感覚がわいてくるのアもしれない。
しかし、そこで、自分の「こわい」という感情を修正できる。
形態をよく見るということは、それを越えて、その背後にある普遍に近い力にアクセスすることができるから、こわいものは何もなく、もっとしっかり植物の言葉を聞き、鉱物や動物たちの言葉も聞いたらいいと思った。
かたちを見ているけれど、かたちだけを見ているわけではない。
形態は媒介であり、本当に観ようとしているものは、その背後にある力だ。
そして、ついでに思ったことは、その力は常に私たちの意識をひきつける磁力を持っているのかもしれない、ということだ。
人間同士も、ほんとはそうなんだと思う。