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聖なる12夜③ 12月26日~27日
第三の聖夜
12月26日~27日 魚座 3月
さて、白百合の三夜に続く。
魂は上に留まることができず、再び降りてこなければならないことを認識する。自覚的なマインドは地上の肉体を浄化し始め、それぞれの食物が旅への備え(viaticum)であると認識する。「私はパンである」(キリスト・イエスの言葉)。私たちはパンから生まれ、パンの発展の道を生き、パンに帰る。
●神秘: 地上界を去るという遠い目標の達成を決して忘れてはならない。
●第三の観想:
霊的な洞察力を持つとき、私たちは自分が本当に「すべて」の一部であることを知る。すると私たちは、自分が何をしようとも、自分自身が「すべて」の一部であると考えたくなる。この選択は、私たちが旅の途中で立ち止まり、いつかそこに到達するというある種の信仰を持つことを意味する。
しかし、このスピリチュアルな洞察力を使って、自分が背負っている荷物を見ることも必要だ。私たちが荷物を見たがらないのは、荷物を見たら、それをふるいにかける力がなくなってしまうと考えるからだ。
では、荷物とは何だろう?
恨み、許しの欠如、恐れ、愛の欠如、意見、一方的な態度、嫉妬、自分を過小評価すること、過大評価すること、数え上げればきりがない。これらの荷物は、私たちの低次の自己、低次のエゴに属するものであり、低次のエゴは、これらすべてのものの中に自らを発展させる力を見出していた。
高次の自己、すなわち生命の糧である「私」に手が届くようになった今、私たちはもはやこれらのものを使う必要がない。実際、今私たちが必要としているのは、これらとは正反対のものだ。
自分の意見を捨てれば、もっともっと多くのものを見る自由が得られる。他人をありのままに愛することは、誰を愛し、誰を愛さないかを決めるよりもずっと簡単だ。
他人を許すことですぐに満足感を得ることはできないかもしれないが、私たちが許すことで世界が変わるのだ。
ルドルフ・シュタイナーがヘルベルト・ハーンに与えた十二聖夜の指示
DeepL.com(無料版)で翻訳しました。
白百合の三夜、というタイトルが興味深い。
百合は、マリアに宿った幼子イエスの象徴。百合は地上との結びつきが弱い植物で、その対極に薔薇がある。そして薔薇はイエスキリストの象徴となる。
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受胎告知に出てくる天使ガブリエルは片手に百合を持って描かれることが多い。百合はガブリエルのアトリビュートであるという解説もあるが、植物の性質から見て、上記のようにも考えることができる。
聖なる12夜の3日目には、魂が地上に降りて、肉体という器をどうしていくか?ということに言及されている。
魂の器となる低位我には、たくさんのお荷物がある。そこには、様々な過去にまつわる感情だったり、旅をするにはお荷物でありいらないものだ。
高位我とつながることが可能になった人類にとって、もはや低位我の荷物に時間をかける必要がないと言っている。
人間の霊的側面も含めたメカニズムを考えた時に、その法則性を知っていれば、低位のところでグルグルする時間を節約できる。節約することが人間の成長にとってプラスとなるのか?という昨今のタイパ、コスパという流れに加担する気もするが、それは真理ではないかと思う。
自分のダメなところに目を向けてそこにはまるよりは、ネガティブなものを認識したら、囚われずに、それを変換しようとする意志にエネルギーを与えることができれば、無駄な時間の浪費はなくなる。
しかし、その意志を発動させることができるか否かが問題だ・・・。