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至高の存在に身をゆだねる
いつでも「これが主に捧げられますように」と感じながらせよ。いつも忘れずにそれをするならば、心は自由で静穏だろう。なんでも自分が所有しようとするな。一時それを預かってはいるが、自分はただの受託者で、所有者ではないと思え
『インテグラル・ヨーガ パタンジャリのヨーガ・スートラ』(スワミ・サッチダーナンダ著)より
Ⅱサーダナ・パダ 実習部門のスートラ1の解説にある文だ。
ちなみに、スートラ1は
「浄化を助けるものとして苦痛を受け入れること、霊的な書物を研究すること、至高の存在に身をゆだねることが、実行のヨーガである」
というもの。
「至高の存在に身をゆだねる」の解説の中の文章が冒頭の言葉だ。
植物を見ていて、ハッとしたときに、その「ハッとした」感覚を写真に残すというのをやっていた時期があった。ひとつの植物をとるのに、1時間ぐらいかかってしまうので、最近は気合が入らずやっていない。
ただ見ているだけでは、そのまま通り過ぎてしまいそうで、なにかもったいないというか、何かを残したいという、執着のようなものがあるなと思う。
もし、ハッとした感覚を写真や絵に残さずとも、自分の中でその感覚を充分に感じてそれと一体になることができたら、それでいいのかもしれないなと思う。何も残らなくても。
うまいこと、言語化が難しいのだけれども、このスートラに解説にあるように、すべてを主に捧げる、と思えば、なにかに執着する必要はなくなるのではないかと思った。
何かを得たり所有したいという感覚が少し出てくると、それがだんだんと増幅されていく感じがすることがある。一方で、手放していくと、あれもこれもいらなくて、ただ、地球であれ宇宙であれ、そこにあるものをじっと見て神が創ったであろうものに驚き、感動し、肉体を持つ間は、それだけしていれば、満足なんじゃないかと思うことがある。
至高の存在に身をゆだね、執着なく、静かで軽やかにありたい・・・と、それも執着かもしれないけれど、そうなりたい。
あまり、言葉で表現しがたい感覚なので、この辺りのことについて、もうちょっと考えてみたいと思う。
忘れないためのメモ。