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社会のために生きるってなんだろう。
社会ってなんだろう。
社会人ってなんだろう。
社会の役に立つ人間になるってなんだろう。
昔はそこになんらかしら答えを持っていたかもしれない。
けれどそれは自分のなかから生まれたものといよりかは、学校に行って、まわりの人から言われたり自分でも言ったりしながらカタチづくられてきた何かなのかもしれない、なんてネパールに行っていて思った。
ほんとに単純に思ったの、自分が村で時間をともに過ごしたネパールの村人たちを見ていて。
「このなかには社会や国を意識することなく一生を終えるひともいるんじゃない?」っていうふうに。
この場合の社会や国っていうのは、僕たち日本人がしょっちゅう言われる
「社会のため」「国のため」みたいなそういうことです。
いま企画している子どもたちを外国に連れていく自転車旅のことを少し話そうと思う。先日お世話になっている人にこう言われた。
「やめたほうがいい。こんなときに何かあったでは済まされないよ。」
何に済まされないのだろうか?国に?社会に?見えない人に?
当事者は僕、スタッフ、参加してくれる子どもたち、彼らを送り出してくださる親御さんたち。
そこでもしコロナウイルスに感染してしまったら僕たちは謝罪会見をしないといけないのだろうか。僕たちの身勝手でみなさまに多大な御迷惑をおかけしてしまいましたと。
僕が責任を持つべきはもしウイルスに感染してしまったとして、それを他の人にうつさないことだ。そしてそれはスタッフと参加してくれる子どもたちにとっても同じことだと思う。
この旅の当事者であるみなさんがこういったリスクがあることを理解していること、それでもやりたい、送り出したいと思ってくださり、これを実行すること。
僕はそのことが身勝手なことだとは思っていない。大切なのは、当事者みなさんが相互理解していること、ウイルスに感染しないようにできる予防を行うこと、行き先の国の受け入れルールに反して行動しないことだと思う。
ちょっと話が横道に逸れたかもしれないけれど。
僕は社会は自分だと思っている。国だって自分だと思っている。
社会や国とは自分の知らないところで定義されたり、決められたりするものだろうけれど、その社会や国も自分だと思っている。馬鹿だと思う。
けれど子どものころから、こう習ってきた。
社会とはそこに生きる人のためにあるものです。
国とは国民のためにあるものです。
と。これ間違っているのかな。
だから社会のためってこうするべき。
社会のためにやめるべき。
と念仏のように言われると違和感ばっかりが残る。
僕が、そしてそこに参加している子どもたちも社会の一員ならば、僕が参加してくれる子どもたちにすることだって「社会のため」なはずなのだ。だからルールを破ろうということじゃなくて、システムとしての社会と、そこに生きる人を視点とする社会とをごっちゃにしてしまっては何もできなくなるという話だ。
ネパールの村人も社会人。
けれど彼らの人生は自分とまわりに生きる目の行き届く範囲の人でカタチづくられているように僕には見えた。
かたや僕は「目に見えないし実感の持ちにくい社会(システム)」というものに人生を縛られてしまってはいないかと思う。それは社会に押しつけられていることもあるかもしれないけれど、「こういうものだから」と自分で決めていってしまっているパターン。
社会には自分が含まれている。
社会には家族が含まれている。
社会にはいま僕の目の前を歩いていったお父さんと、手をつなぐ小さな女の子が含まれている。
社会のために生きるとはどういうことなのだろう。
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自分が自分でいられること。
旅の日々で自分の心に浮かぶ思いや気づきを読み物として。僕の旅の生き方のなかで、読んでくださる方々の心に心地よい余白が生まれればいいなという…
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