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タブーに触れないという不正義


どうも、久しぶりの投稿です。tokusan改め、トクモリカズヒロです。


突然ですが、わたしはれいわ新撰組を支持しており、特に大西つねきさんの思想を好んでいます。

その大西つねきさんが先日、自身の動画内で波紋を呼ぶような発言をし、つねきさん本人とれいわ新撰組として謝罪・撤回のコメントをしました。

つねきさんの言った発言は以下のようなものです。


・高齢者の延命は若者の時間の使い方として適切か?
・命の選別のための選択は政治の役目


はい。突然こんな話を切り出されると、


・命を大切にしていない!
・年寄りは死んでもいいのか!
・不謹慎だ!


といった正義感を振りかざし、その先の議論に進ませないような発言をする方を多々見受けられます。

あ、何も発言をせずに触れない方も同じです。


今回の「命の選別」ですが、これは少子高齢化という比較的聞き馴染みのある社会問題へのアプローチとしては、回避することのできないことだと思います。

子供が少なくなり高齢者が増える中で、若者の時間や労力の使い方をどうするか?や、高齢者の社会的な扱いをどうするか?というのはまったくもって議論の余地があることでしょう。

これを議論せずして、日本の未来はあるのでしょうか。

何となく命は大切だし長生きするのが良いよね。ではアカンでしょう。


ちなみに、命の選別に関する私自身の見解は(おそらくつねきさんと同意見)、


①本人やその周りの人たちも望まない延命は不必要であり、尊厳死・安楽死の選択肢を提供する。

私の近くでも先日、「高齢の親の介護が大変だし、本人も辛いと言っている」と言っていた方がいました。

果たしてこれは命を大切にするとかいう話なのでしょうか。

私は命の選択は個人の自由であっても良いと思います。
安楽死を導入し、個人の尊厳を守る死という選択肢があっても良いのではないでしょうか。

もちろん導入する際にどのような条件で安楽死を認めるか、などは議論の余地があります。

他国では認められているところもあるので、参考にしていきましょう。


②不必要な延命(本人と周りの望まない)は人々の時間と労力(金)の使い方としては望ましくない。

介護や医療にかかる時間と労力は高齢化社会が進むにつれ、増しているのは想像に容易いでしょう。

例えば20歳の若者が不必要な延命をする90歳の高齢者の介護をしていたとして、そのまま100歳まで生きながらえたとしたら、当時20歳だった若者は30歳になってしまいます。
単純に考えると貴重な20代の時間を失ったことになります。

ちなみに、この例の90歳の高齢者は、植物状態で社会的価値を残すことがないという極端な例で考えてください。

一人の若者に対して一人の高齢者だけを考えると上記のようになりますが、これが人口1億人強の国で考えるとどうでしょう。

おそらく、若者の多くの時間が不必要な延命に割かれていることになりそうです。



そこそこ過激な発言をしましたが(私はそうは思いませんが)、本題はここからです。


命の選別という話題は日本人にとって、

政治・宗教などに次ぐ、タブーな話題として扱われるでしょう。


社会問題というその社会に生きる人々すべてに関係する問題に対して、触れないという選択をするのが良くて、触れるとタブーだと言われるのはなぜなのでしょうか。

問題は議論して解決するものでしょうに。

触れないということは不正義だと思います。

いじめを見てみぬふりをすることと同じだと思います。


特に、政治なんてものは国に生きる国民の生活そのものであるはずなのに、それを話してはいけないなんて!

不思議な話です。


長いものには巻かれろだの、
それが社会ってもんだの、
自分一人じゃ何も変わらないだの、

ふざけんな。と思うばかりです。



命の選別に関しての発言は、オリジナルの考えなので、何か間違っていることがあればご意見いただけると有り難いです。
不適切だ!みたいな非建設的な意見はいりません。

気を悪くされた方は申し訳ありません。



もう少し社会問題を身近に感じ、意見を交わし、より良い社会を作るために。



それでは、また

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