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暗い森の少女 第五章 ② 跡絶えぬ因縁の辿路
跡絶えぬ因縁の辿路
淡々とした黄金色の液体から、かすかに苦みのある香りが漂っている。
飲み頃になるのを待って口に含みと、草の根を煮出したような渋みが広がり、花衣はびっくりした。
顔をゆがめた花衣を、夏木が知的に太い眉を寄せ心配げに見つめる。
「好きじゃないかな?」
「うん。変な味」
「ハーブティーなの。カモミールと言って、気持ちを落ち着かせる効果があるわ」
「本で読んだことがある」
「はちみつをいれてみようか」
とろりとした蜜を加えたが、苦みは消えず、やはり奇妙に渋さと苦みが口中に広がった。
「無理をして飲まなくていいのよ」
夏木は優しい笑みを浮かべる。しかし、花衣はカップに注がれたカモミールティーを一気に飲み干した。
「ゆっくり飲んでいいのに」
「薬だと思った」
花衣は真面目に答えたのだが、夏木は冗談でも聞いたように笑い出す。
瀬尾の曾祖母の部屋、真白い壁に金色のいくつもの肖像画が飾ってあるそこは、真冬と思われぬほど暖かく、清潔で、光に満ちていた。
重たげな厚い生地のカーテンは開かれ、白いレースのカーテンだけになっている掃き出し窓からは、瀬尾家の裏の丘のような小さな山が見えている。今日も日差しはこぼれるように降り注ぎ、緑が綺麗だ。
二日前から始まった、愛子の捜索は遅々として進んでいないようだ。
瀬尾家の使用人の若い男が毎日夏木に報告にくるが、村の男は闇雲に山の中を歩いているだけで、まともに探しているようには見えないし、付き添っている警察は、愛子の実の父親でも現れて連れて行ったのではないかと話しているらしい。
「いやあ、こちらの言いつけじゃなかったら行きませんよ。足にマメが出来て、手は霜焼けだらけです」
「ありがとうございます。……旦那さまの方にはもちろん手当の話はしてますから」
「いや、そういう催促している訳じゃないんです。ただ……誰もその女の子のことを心配してないのが、ちょっと……」
息を潜めてふたりの会話を聞いていた花衣は、胸の中が波打って黒い水で満たされ凍えていくのを感じた。
花衣は自分の手が、愛子の柔らかい首を掴んで、かすかに濁った緑色のため池に沈めた感触を生々しく思い出す。
しかし、それは気がついたら自宅の風呂場で死んでいる愛子の姿に変わったのだ。
また、花衣につきまとい乱暴を働く中学生の男子は、自分が愛子を殺したのだと告白してきた。
(お前のために)
血を吹くような叫びが蘇り、花衣はぞっと体を震わす。
「あら、寒い?」
夏木がストーブの火を強くしようとしゃがみ込む。
「ううん……」
花衣は、額縁の中で微笑んでいる瀬尾の曾祖母の姿を見ながら、口の中に残る苦さを舌でたどった。
……あれはいつのことだったか。
下の叔父が、一升瓶をラッパ飲みして、徐々に目が据わっていくのを、部屋の隅で花衣は怯えながら見ている。
机には、ちくわやスルメ、また、下の叔父の好物の甘い卵焼きが食べかけで放置され、少し乾いていっているようだ。
先ほどまで、花衣も同じ机で夕飯を食べていた。
白米に味噌汁、昨日の残りの煮物といった食事ではあったが、祖母は料理上手なので質素でも気にならない。
最初は機嫌良く、つまみを食べながらゆっくり酒を飲んでいた下の叔父が、
「つまみがもう少し欲しい」
と言って、祖母が卵焼きを焼いてきたのだ。
「お前も食うか?」
その時、下の叔父は明るい調子で言ってきたのだ。
腹は満たされていたが、自分も祖母の甘い卵焼きが好きだった花衣は、喜んで一口もらう。
砂糖をたくさん入れているからカステラのような焦げ目があったが、それもお菓子のようで子供の口には美味しいものだ。
だが、花衣は僅かに違和感を覚えた。
かすかに苦い。
口に広がる苦みは、熱を出したときに飲まされる粉薬のような風味がしたのだ。
「まあ、お前はおじさんのおかずを食べて!」
席を外していた祖母が、戻って来るなり花衣の箸を取り上げた。
「俺がいいっていったんだよ」
下の叔父は、うまそうに卵焼きを食べ続け、そして、今まで手酌ではあったがコップに注いで飲んでいた酒を、ラッパ飲みし始めたのだ。
その後は、いつも同じだった。
花衣の返事が遅い、目つきが気に入らない、などささいなことがきっかけで、下の叔父は暴言を吐き続け、ついに手が出る。
最初は腕を掴み、花衣に平手うちを食らわす。
まだ小さな花衣は、大柄でがっちりとした筋肉質の下の叔父の一発で、襖まで吹き飛んだ。
卵焼きを食べてから少し苦かった口の中が、鉄の味に変わる。
「やめて、お願い……顔はやめて。見えるところは」
祖母は下の叔父を止めてくれている。いや、違う。
下の叔父が完全に理性をなくして、ぼろ雑巾のようになるまで花衣の全身を傷つけないように、微妙な声の音色で、下の叔父を操作してたのだ。
(私がおじいさんのひとり娘なのに)
以前、祖母が、上の叔父に愚痴をいっていたことを思い出す。
(嫁に行ったからって、私が葛木の家の直系なのに。あんなどこの馬の骨かわからない私生児に、それを取られるなんて)
(だから言ったろ)
上の叔父の、ねっとりとした低い声が答える。
(親父がいくら可愛がっていたからって、姉貴を特別扱いしすぎだって)
(だって……)
(じいさんが可愛がるからって、弟のことも甘やかしすぎだ)
(おじいさんが死んだからその辺はもううまくやるわよ)
祖母の声は、次第に毒のこもった忍び笑いが混じったものになっていく。
(『あの薬』を飲ませているから、そんなに長くはないわ。おじいさんのように)
(じいさんだって、何十年ももったじゃないか)
(加減が分からなかったのよ……。でも、あの子が花衣を殺してくれたら、そして刑務所にいくなり、一緒に死んでくれたら)
(……)
(……おじいさんの血を引く、葛木の直系はお前だけ。お前が葛木家の跡取りになるのよ)
ああ、私も、下のおじさんも、いらないんだ。
祖母が一番可愛がっていたのは、上の叔父だけだった。
しんねりむっつりとして、内向的な叔父は、確かに祖母に一番よく似ている。
花衣の腹を蹴る下の叔父の目に、もう正気はないかと思われた。
(おかあさん)
目の前が徐々に暗くなる。下の叔父の怒鳴り声も、祖母の猫撫で声も、遠くなっていく。
気を失っていたようだった。
なにか、生温かいものが頬にかかり、花衣はぼんやりと目を覚ます。
天井からつるされている蛍光灯がゆらゆらと揺れている。
激しい息づかいが聞こえる。獣のような息づかいに花衣は身を固くする。誰かが細い喘ぎを漏らしている。階段を駆け下りてくる音がする。
薄く目を開けた花衣の目に襖が見え。
襖には祖母の好きな桔梗が描かれていたが、その艶やかな紫色に、ぽつぽつと散る薔薇がある。
あんな柄はあっただろうか……。
(なにしてんだよ!)
上の叔父の声だった。普段、ねつい、低い声しか出さないくせに、こんなかん高い悲鳴のような声も出せるのか。
(いきなり飛び出してくるから)
下の叔父も、普段からは考えられぬようなおろおろとした声を出す。
(俺の目の前に、急に姉貴が飛び出してくるから)
下の叔父の手には、割れた一升瓶が握られている。濃い茶色の切っ先が、蛍光灯の光に透けて、宝石のように輝いている。
割れた瓶の先から、ぽたぽたと落ちているものがあった。
赤い液体。
(ああ、どうしよう、どうしよう)
祖母の嘆く声がする。途方に暮れた子供のように、同じ言葉を繰り返す。
(どうしよう、どうしよう、おにいちゃん)
(いや、だって)
(俺が警察に行くよ)
(待って!)
(……おふくろ?)
(これは、事故よ。今まで好き勝手してきたこの子が悪いんだわ)
(だけど……)
(いや、考えても見ろ、お前。このことがばれたら、お前だけじゃない。おふくろだって、俺だって、この村で生きていけやしない……こいつだって)
(花衣だって?)
(葛木家の、跡取りになる話がなくなるかもしれないぜ? なにもかもおじゃんだ)
(でも兄貴)
(そうよ)
酔いから完全に覚めたような下の叔父の声、いつもねばついた声を出す上の叔父、なにか宝物でも見つけたようにうきうきとした祖母の声が、狭い和室に反響する。
(この村を嫌って、おとうさんが死んでからほとんど寄り付きもしなかった子よ……姿を消したって、誰も気がつく者はいないわ)
(おふくろ)
下の叔父に声が、怖じ気ついたようにわななく。
(大丈夫……お前のしたことは、秘密にしてあげるわ)
祖母の、目を細めてにっかりと笑っている顔が見えるようだった。
頬にかかった、生温かいものはとうに冷えている。
花衣は目を閉ざした。
ここで花衣が目覚めたことがしれたら、恐ろしいことになると、何かが確かに告げていたのだ。
花衣の心の奥底にある、鏡の部屋に住んでいる、ざんばら髪を背に流し、淫猥な笑みをうかべた女が意識に這い上ってくる。
座敷牢の女は、観念の花衣の顔に息がかかるほど間近で囁いた。
(見たんだね? 見てないふりをして)
女は冷たい手で、花衣の頬を包む。
(今までずっと、知らん顔できたけど、お前は知っていた)
(やめて)
(葛木の家の人間は、血を薄めないために何代も近親婚を繰り返していた……お前の下のおじさんのように、癇の強い子は珍しくないよ。育てにくかったろうねぇ。苦労したんだろうさ……ちょっと、聞き分けのよくなる薬を飲ませたくなるくらい)
顔色は蝋のようだが、白目にははっきりと脈々とした赤い血管を浮きだたさせ、座敷牢の女は花衣をのぞき込んだ。
(全部お前は知っていた)
地の底を這うような声音であった。
(見えないふり、聞かないふりをし続けていただけ。お前を守ってくれた人間のことも忘れて。ただ、自分を守るだけに精をだしたのさ……ああ、ひどい奴だ。醜いねえ……)
(いや)
(ああ、本当にお前は、葛木の女だよ)
座敷牢の女は、花衣から手を離し、自分の頭を抱えるようにしてもだえている。
しどけない襦袢はうねる体からはだけて、蛇の腹のような不健康な白さの胸やら太ももがむき出しになった。
淫靡な舞を踊る敷牢の女を息をつめて見つめていたが、ふと、球体の延々と続く合わせ鏡の部屋の中から、黒い影がひっそりと現れ、座敷牢の女の後ろにたたずんでいることに花衣は気がつく。
目も口もシワに埋もれて、男なのか女なのか、判別ができないほど老いた人物が、女越しに花衣を見つめているのだ。
あまりに闇に紛れて姿は判然としないが、黒光りをしているように老人は漆黒の世界に浮かんでいる。
(お逃げ)
座敷牢の女がふいに言った。
しかし、その言葉を言い終える前に、電流を流されたように激しくのけぞった。
(……ここまで、堕ちてこい)
同じ女とも思えぬ、怨嗟に満ちた声が、ひび割れた唇からもれる。
(お前だけ助かるのか。お前だけ逃げるのか。お前だけ……お前は『葛木の女』なのに!)
狂おしい声に花衣は怯えた。
後ずさった後ろに、柔らかいものが触れる。
(おねいちゃん)
ピンク色のサマードレスを着た、愛子が立って花衣を見下ろしている。
いや、愛子ではない。
確かに、あの娘は祖母や上の叔父の異常な溺愛で、天狗になっている風ではあった。花衣を家の中では一番の下っ端で、自分が何をしても許される、幼い暴君の我儘はあったのだ。
だが、今花衣を見つめている幼女は、暗い憎しみと怨念を抱きながら、それを隠すようにわざとらしいあどけない笑顔を向けている。
これは、愛子ではない。
しかし、愛子でもある。
(いいじゃない。今いる世界が苦しいんでしょ? あ、いつまでもその家にいられるわけじゃないのはわかっているよね。また、おばあちゃんと一緒に暮らさないといけないのよ。上のおじちゃんが死んじゃったから、下のおじちゃんが帰ってくるかも……そしたら、おばあちゃんがまた特製の卵焼きを作るよね、きっと)
愛子は背をのけぞらして笑った。
鏡をひっかくような哄笑に、花衣は耳をふさぐ。
急に笑い声はやんだ。
しんとなった世界で、花衣は閉ざしていた目を開く。
そこには、大写しになった愛子の顔が、ぬらぬらとした液体をたらしながら迫っていた。
愛子のまだ幼い顔は、得体の知らないおぞましい感情によってひきつり、柔らかそうな手は、またしても花衣の首筋に伸ばされようとしている。
(お前だけ生きているなんて、許せない)
愛子の口から発せられた声は、数十人の声が重なった不協和音を立てた。
(その体を、よこせ)
花衣は絶叫した。
愛子の体はいつしかどろどろに溶け、あざやかな肉や骨が見えている。
眼球がぽたりと落ちた。
その奥には、幾万もの『愛子』が、蟻のように蠢きながら花衣に手を伸ばしていたのだ。
「夏木さん!」
屋敷に響く、野太い声で、花衣ははっと気がついた。
レースのカーテンが淡い金色に染められている。
灯油が切れたのか、部屋は少しだけ寒く、石油臭い。
眠っていたのか?
どこからが夢で、どこからが記憶なのか、判断はできなかった。
「どうしたんです」
夏木が玄関に向かう足音がする。
「夏木さん、えらいことになりました、ああ、本当にえらいことだ」
声の主は、いつもの瀬尾家の使用人の若い男だろう、我を失ったような大声は、屋敷の一番奥にある、瀬尾の曾祖母の部屋まで筒抜けであった。
「落ち着いてください。……なにがあったんですか?」
夏木は冷静に言ったが、それは次の瞬間、崩れ落ちただろう。
「子供が見つかりました」
男は喘ぐような息使いで、だが叫ぶ。
「山は探しつくしましたから、あの、村の境にある森の中に今日はいったんです。ため池があって、こんなところに3つの子供が来るわけがないと言いながら、棒で底をさらったんです。……何度目かで、浮かんできたんです。泥にまみれた子供が。……それと」
男の台詞がどう続くか、花衣には分かっていたような気がする。
「大人の骸骨が上がったんです……ええ、いつからあったかなんてわかりゃしない。ただ、ああ、怖い……たまたまなんでしょうが、子供の足首を、骸骨が握りしめているような形になっていたんですよ! だから、ひっぱりあげた子供と一緒にあがってきたんですが……あのため池は、底なし沼のようになってましてね。まるで、骸骨が子供を引きずり込んで、自分を重しにしていたような、そんな感じだったんです。……はい、旦那さまには夏木さんから報告をしてください。……いや、女の人が見るもんじゃない。……子供の首にも、青いあざがくっきりと浮かんでました……なにがどうなったんだか、この村には殺人狂の変質者が現れたのか、それとも、この村の中に、そんな奴がいるのか」