ドゥジョム・リンポチェ著「瞑想指導」を読んで

昨日、この短い著作を読んで思ったことを以下に書き記しておきたい。

注記

*のマークがぼくのコメンタリーである。

DRは、ジョム・リンポチェを指す。

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導入

すべては心に由来し、これが「良い」「悪い」にかかわらず、すべての経験の根本原因であるため、まずは自分の心に働きかけ、心を迷わせ、その迷いの中で自分を見失わないようにすることが必要である。

*まるで唯心論のようだ。すべてが心から始まっている。じゃあ、その動作を止滅させればどうかと考えてしまう。おもしろいことに佐保田鶴二著「ヨーガ根本経典」(1973年)の解説ヨーガ・スートラの箇所には、「ヨーガとは心の作用を止滅することである」とヨーガの意味が書かれている。

心の混乱を誘う複雑さや捏造の不必要な蓄積を断ち切る。いわば、問題の芽を摘むのである。

*これはまさに佐保田鶴二のヨーガの意味と同じではないか。

自分自身をリラックスさせ、ある程度の広さを感じ、心を自然に落ち着かせる。身体は静止し、言葉を発しないようにし、呼吸はそのまま、自由に流れるようにします。ここでは、手放す、展開する、させるの感覚があります。

このリラックスした状態というのは、どんな感じなのでしょうか?

瞑想をするあなたは、本当に大変な一日の仕事を終えて、疲れきって、平和的に満足し、心が休まるように満足している人のようであるべきです。何かが腸のレベルで落ち着き、それが腸の中で休んでいるのを感じると、あなたは軽さを経験し始めます。まるで自分が溶けていくような感覚です。

*臨済録の示衆の箇所に、長年修行を続けるより、のほほんとしているほうが効果的である、という臨在の教えがある。リラックスは大事だということだろう。しかも、DRのいうリラックスとは体がふわふわのどこにも力が込められていないほどで、上座部ではピティ(楽)という状態に入ったリラックス状態について述べているようだ。

心の動きはとても予測しにくいものです。幻想的で微妙な創造が生まれ、その気分は、あなたをどこへ導いてくれるのか、限りありません。しかし、頭巾をかぶったような泥臭い、半意識的な漂流状態、つまり夢のような鈍さを経験することもあるかもしれません。これは静寂の一種であり、すなわち淀みであり、ぼんやりとした無心の盲目状態である。

*初心者が陥りがちな瞑想状態。お酒などでラリった、ポワーとなった状態についてDRは触れている。これを瞑想中だと勘違いしてはいけない。

では、どうすればこの状態から抜け出せるのか。背筋を伸ばし、肺にたまった空気を吐き出し、意識を澄んだ空間に向け、新鮮さを取り戻すのです。この停滞した状態のままでは進化しないので、この澱んだ感覚を何度もクリアしてください。

*ぼくも20年ほど前に初めて瞑想を習った時、このような半分眠っているような状態に何度も陥った。そもそも事務系リーマンで運動不足だったので、呼吸も浅く、すぐに二酸化炭素が肺に溜まって眠気を生じた。こう言った状態に陥らないようにするためには、水泳、ランニング、ハタヨーガなどをやって肺活量を増やすことが大事である。チベット仏教の準備の行で、五体投地という修行があるが、まさにこのような膠着的な体を解きほぐし、肺活量を上げることに貢献していると思われる。

注意深さを養い、繊細な警戒心を保つことが重要です。

つまり、瞑想中の「明晰な意識」とは、静寂と変化の両方を認識し、基本的な知性の中に平和に留まるという静かな明晰さなのです。

*明晰な意識を保つこと。意識が、静寂な内外の状態、動きのある内外の状態をモニターできること。そんなクリアーな状態で瞑想することが大事とDRは解いている。

実際に実践することによってのみ、人は結実を経験し、良い方へと変化し始めます。

*上座部仏教では静かに瞑想することに重きが置かれている。しかし、瞑想にはアスレチックな身体性が必要となることを付け加えておきたい。瞑想に関する書物もあくまで呼び水であって、実際にやってみることでしか分からないことが多い。また、実体験から生まれる、修行者を高みに連れて行ってくれる、本には事細かに書かれていない知恵がある。

行為中における見地

まず、瞑想中の自分の心は、それ自身の自然な方法で均等に落ち着き、波紋や風に邪魔されない静かな水のようであり、その静寂の中で何か考えや変化が生じると、海の波のように形を変え、またその中に消えていく。自然に放置すると、自然に溶けていく。どのような心の乱れが噴出しても、それをそのままにしておけば、それ自体が自ずと解決し、解放されます。したがって、瞑想を通して到達した見解は、何が現れても、それは心の自己表示または投影にほかならないということです。

*これも唯心論的説明だと思われる。

この瞑想中に得られた視点を日常生活の活動や出来事に継続することで、(私たちの問題の根本原因である)世界を強固で固定された具体的な現実として捉える二元的な認識が緩み始め、溶けていきます。心は風のようなものです。そして、この見解がより確かなものとなることで、人は状況のユーモアを理解し始める。日常でおこる物事がどこか非現実的に感じられるようになり、人が出来事に示す執着や重要性が、ばかばかしいか、ともかく軽るく薄っぺらなものに思えてくるのです。

*心の動作の様態がわかってくると知恵が生まれる。その知恵が上述の説明だ。例えば、気持ちよく接してくれる人がいれば気持ち良い心の状態が生まれる。また逆に、心に捩れのある人が接してくると、何か収まりの悪い心地の悪い心の状態が生まれてくる。つまり、他人の心が自分の心に影響して、気持ち良くなったり、気持ち悪くなったりしている。そういう風に外部環境に影響されてぼくたちは世界を構築している。しかし、それは常に変化している虚構、ドラマのようなものであって、堅個たるものではないと知るのである。

こうして人は、瞑想の流れるような気づきを日常生活の中で継続し、すべてを心の自己顕示的な戯れとして見ることで、知覚の縛りを解消する能力を身につけるのである。そして、瞑想の直後、この気づきの継続は、冷静に、静かに、簡素に、動揺することなく、やるべきことをやることで助けられます。

*心が世界を作ること。それは絶対的なものではないことに気づくようになる。そして、ある種のユーモアを持って、眼前に流れる事態を捉えるようになる。知覚を通して作り上げる心の世界に縛られなくなるのである。時間はかかるが。瞑想トレーニングを積み重ね、その境地を徐々に日常でも体験して慣れ親しむことだろう。

だから、ある意味では人生のすべてが夢のような、幻のようなものなのだが、それでも人はユーモラスに物事を進めていくことができます。

例えば、

・歩いているとき、余計な厳粛さや自意識はなく、軽やかな気持ちで、ありのままの姿、真実の空間に向かって歩いていく。
・食べるときは、真実、ありのままの姿の拠り所であります。
・そして、小便をするときは、あなたのすべての曖昧さと閉塞が浄化され、洗い流されていると考えるのです。

ここまで、修行のエッセンスを簡単にお話ししてきましたが、私たちが二元論的に世界を見続ける限り、本当に心の執着や否定から解放され、外側の知覚をすべて空の本性である心の純粋さに溶かすまでは、「良い」「悪い」、「ポジティブ」「ネガティブ」という行動の相対世界にとどまっており、これらの法則を尊重して、生活において自分がとる行動に心を配り責任を持たなければならないことを理解することが必要です。

*知覚を通して心に映しだされる状況を、絶対的で、真実である、と思い込む習慣がぼくたちにはある。仏教的にはそのようなものと世界を捉える癖を、生まれ変わりを繰り返しながら強化してしまっているからだ。それを反転させ、心性に馴染ませるには時間がかかる。まず、恐ろしいこと嫌なことが起こったと思っても、それを絶対視せず、心の戯れが作り出した幻想、夢として扱うことだ。楽しいこと嬉しいことも、同様である。DRは、「本当に心の執着や否定から解放され、外側の知覚をすべて空の本性である心の純粋さに溶かすまで」とぼくたちが瞑想修行を続けて、到達すべきゴールについて述べている。これは重要な目安だ。

瞑想の後

正式な瞑想の後、日常生活の中で、この軽やかで広々とした気づきをずっと続けていると、次第に気づきが強化され、内なる自信が生まれてくるでしょう。

瞑想から落ち着いて立ち上がり、すぐに飛び起きたり慌てたりせず、何をするにしても、軽い威厳と落ち着きを保ち、心も体もゆったりとした気持ちで、やるべきことをやりましょう。意識を軽く体の中心に置いて、注意が散漫にならないようにします。このマインドフルネスとアウェアネスの糸を維持し、生活を続けましょう。

・歩くときも、座るときも、食べるときも、寝るときも、ゆったりとした心持ちで。

・他人に対しては、正直で、優しく、素直であること。一般的に気持ちの良い態度をとること。おしゃべりや噂話に夢中にならないこと

・何をするにしても、実際、心を静め、ネガティブなものを抑制する方法であるダルマに従って行いなさい。

*ここでは、瞑想を終えた後の日常生活における気構え、過ごし方について述べている。本当に大事なことは、瞑想を積み重ね、混乱した意識や生活習慣から徐々に抜け出して、かつ瞑想で慣れ親しんだ心の状態に留まり続けることである。

終わり

ドゥジョム・リンポチェ (1904-1987)について

チベットで最も優れたニンマ派高僧、仏教学者、仏教瞑想のマスターの一人である。ドゥジョム・リンパ(1835-1904)の化身として知られ、その前身にはシャリプートラ、サラハ、キョン・ロツァワなどの偉大なマスター、ヨーギン、パンディタが含まれています。パドマ・サンバヴァの生ける代表とされ、パドマ・サンバヴァが隠した「宝物」(テルマ)を明らかにする偉大な人であった。多作で几帳面な学者であるドゥジョム・リンポチェは40冊以上の本を書き、その中でも最もよく知られているのが『チベット仏教ニンマ派』という記念碑的な本である。その中でも最もよく知られているのが、『チベット仏教ニンマ派:その基礎と歴史』である。晩年は欧米で教鞭をとり、フランスとアメリカに主要なセンターを設立するなど、ニンマ派の伝統の確立に貢献した。

以上

翻訳文