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『自分を置いて』

本当ならこのタイミングならば全てを置いてでも、
心底頑張るべきことがあるのに、
そこに私が全力が注げていないときに、友人が電話してきてくれた。

『本当に大切にしたいことは何?
今の状態で、本当に大事なこと以外に力を入れていていいの?
そばにいたい人も考えた方がいい』

表面的にはとってもきついことを言われた。
けれど、彼女はむしろ嫌われてもいいから、私のために真剣に話してくれているのがよくわかる。

わかったからこそ、表面的に、そうだねって受け取ったフリができなくて、
『嫌われてもいいくらいの気持ちで言ってくれてるのはわかるし、
本当にありがたいし嬉しいんだけど、今はそういう思いが持てない』
と答えるしかなかった…。

昨日のnoteでは、話し方教室に行って学んだこと、その中で話すということには本当は聴くということがとっても大事なんだよという話をしました。

きっとこの会話の時、お互いに、言葉以上のものを通じあわせて話していたと思う。彼女の思いに答えられない自分の歯がゆさを感じながらも、自分の心が動かないことができないという不器用さのある私。それを彼女はよく理解してくれて、あほだなーと思いながら心を寄り添っていてくれる。本当にありがたい話です。

健やかに豊かに暮らす世界を作りたいと綴るブログ、その667日目『自分を置いて』

さて、んじゃ、見ることは?ということで、双雲さんのブログから。

書の世界において、見るということはとても重要だ。
見るというより観る。
観ることを深めていくと
線のこまかい部分だけでなく、書き手の息づかいや心の動きまで見えてくるようになる。
お手本という存在は、自分を新しい世界へいざなってくれるもの。
自分流でぱっぱっとやると
やはり限界はすぐやってくる。
このことは書の世界でなくともすべてにおいて言える
あらゆることをお手本とし、
見る。観る。観る。
そして
真似る。応用する。
しかし、なかなか素直になれず、自分のやり方に固執する。
観よう。
新しい自分と出会うために。
双雲@いかに自分が、観ていないか、見えていないかを受け入れることからはじめます。

よーくよーく観ていると、その人、モノ、ことの目的や原因・理由が見えてくる。

その瞬間に、自分の価値観メガネをかけたまま見ていると、表面的なことしかわからないし、思い込みで判断しちゃったりする。

だから、自分を置いてその観たいものと同化するくらいじーっとじーっと観ないといけないし、学ぶ時には自分を置いて真似なければ新しい世界に到達できない。

のだよ、私。

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そしてこの日の双雲さんのブログにはこの作品が。
観という金色の文字の下に、ぐるぐる🌀と、たくさんの手形、その他にわたしには、楽、の字が見える。
何が出てくるか?と楽しみながら観る、ということか?
俯瞰的にふわっと、でもグーっと観るために、無理やりじゃなくてふわっとでもぐーっと自分を置くということかな







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