エゴイスト、かく語りき
まず、始める前に、
かくいう私自身がとてつもなくエゴイストだった、という事実を頭に入れて置いて欲しい。それと欲望は悪ではない、ということも。
別の記事とかぶる点があるが、今後の地球、人間社会にも影響があることなので、ぜひとも耳を傾けて欲しい。
”エゴ”は再三言ってるように自我のことであり、自我は思考で出来上がっている。それに対して”本質”とは、その人の”実体”を指す。わかりやすければ”魂”でもいいと思う。その素材は「この世界を無限に満たすモノ」で構成されている。
両者は質が違っていて自我、つまりエゴは思考なので肉体上の一部の機能でしかない。
ここが問題。
肉体上の一部の機能、大脳の、それもその一画でしかない”思考”というエリアは当然その容量が小さい。
あなたは、どれくらいの文字数の文章を暗記できるだろうか?400文字だと原稿用紙きっちり一枚分だが、それだけできればすごい。ほとんどの人は100文字以下だろう。とてつもなく容量が小さい、ということだけわかってくれればそれでいい。
その容量の小さい”自我”なるものの欲望というものは、当然、それを満たしてもすぐに枯れる。すぐに飢える。すぐに飢えるので、またすぐに満たそうとして欲望を追求する。そしてまた満たされるが、すぐ飢える。
この繰り返し。
この繰り返しは時間がだんだん短くなる。
そして何より、一番重要なのは、
器が小さいエゴの欲望は、その満足感もまた決定的に少ない、ということである。さらに満足したあとは必ず飢えが待っている。
常にエゴの欲望は「満足と不満」という二者がワンセットになっている。
その理由はエゴ、すなわち自我が思考でできあがっているから。
思考が満足と不満を識別する。識別するだけなら問題ない。もし”空腹”という信号を認識できなかったら餓死してしまう。”満腹”を感じられなかったら、食べすぎてお腹を壊す。痛みを感じなければ体のどこが悪いのかわからず、治療もせずに悪化してしまう。
だから思考の識別機能自体には問題がない。
問題は”自我が思考である”ということ。
自我そのものが思考であるため、満足と不満という分離、二元性の影響をもろに受けてしまうのである。自我そのものが思考である、ということは、意識が思考に同一化している、ということである。思考を自分だと思いこんでしまっている状態にある。
思考は人体の単なる一機能であって”自分”ではない。
だが、どこかで人間は思考を自分だと思い始めた。そのことを簡潔に解説している書物がある。それが聖書の創世記である。
この中で”思考”を象徴しているのは”知恵の木”というものであり、これは”善悪を知る木”とも言われる。この木の実を神は「食べじゃダメ」と明言しているが、「食べると神のようになれる」とヘビに言われ、アダムとイブは案の定、食べてしまう。
こうして人類に、分離がもたらされた。
善悪を知ることになったせいで、同時にあらゆる二元性が起こり、永遠であった命も分離を起こし、「生と死」が生じた。そしてアダムとイブは楽園からの追放により、神つまり一元性からも分離する。
ここで真っ先に思うのは
「そもそも知恵の木を植えたのは神様じゃないのか?」
「神様が植えなきゃ良かっただけではないか?」
という疑問が生じる。そして「神こそサタンでは?」という疑念さえも生まれてくる。だがこれは違う。
知恵の木は必要から植えられたのであり、問題はその木の実を食べることで思考に同化した、ことがすべての要因と言える。知恵の木は”善悪を知る木”という名のとおり、思考を表している。思考は機能として必要であるが、人間はその思考を自分である、と誤って思い込んでしまった、ことを示唆している。
そして知恵の木の実を食べた最大の要因は外から来ている、という事実。
聖書ではヘビが人間をそそのかした、ことになっている。
こいつの正体は後に新約聖書の中で”サタン”だと判明するが、サタンとは何者なのか?少なくとも人間が自発的に食べたわけでないのは明らかだ。
どこぞのクソ生命体が人間に食べさせるように誘導した、わけだから、この世界の惨状は人間だけに責任があるとはいえない。ただ、神の声を無視したことだけはいただけない。このことは、本質から離れた、と解釈していいと思う。
私を含め、日本人は無宗派の人が多いだろうから、”神”といったら一元性とか本質、というふうに随時、解釈してほしい。
話がそれるが、私は使える知識はどの分野からも引っ張ってくる質なので
私を”〇〇系の人”というくくりに収めるのは無意味である。
私は”私系”、もしくは”自由系”である。
また、聖書はカバリストにとって、宗教書ではなく魔導書として認識されている。あれは一人の人間が魔術を通して人間本来の姿を取り戻す過程を示唆したものだ。イエスが魔法のようなことを数々行っている記述が散見されるのも頷ける。イエスは魔術師である、という認識のほうがしっくり来る。
このように、アダム=人間は思考に同化することで、神=絶対性と分離し、自らにも生と死という宿命をもたらすことになった。
そして、そのエゴの欲望を追求することは、いつまでも、人間を分離の状態に置き続けることになる。いつまでも「自分でないもの」を自分だと思い続け、そのために死ぬほど苦しむ羽目になる。
今までの苦悩や黒歴史など、それらがすべて自分がしたことではない、ということに気づけば、とてつもなく心が軽くなるだろう。
あなたがどう思おうが、あなたがしてきたことはすべて、あなた自身ではないのである。
ニサルガダッタが
「肉体は自分ではない。自分ではないものに、執着することに意味はあるのか」と言ってる通りである。
私は際限なくエゴの欲求を追求した、と最初に述べた。その人生を振り返って思うことは、ただ一つ。
「何ひとつも心から満足がいくことはなかった」
これは本当に、全身全霊で痛感する事実だ。
エゴイストなので、当然、周囲の人間から嫌われまくっていたが、
それでも「やりたいことはやり尽くす」という信念のもとに生きていた。
その結果がこれである。
エゴの小さな器では、到底、大きな満足など得られるはずもない。だが、魂の衝動に身を委ねれば、それはとてつもなく大きな満足となる。それは当然のことだ。魂が要求していることなのだから。
自分の存在のすべて、本質も肉体もエゴも自分という全存在を包み込んだものとなる。おまけに魂に付着した願望も同時に削ぎ落とされるので、魂も磨かれる。
エゴの欲望を追求することは、時間とエネルギーの無駄でしかない。
そのくせ大した満足感も得られず、すぐに飢えるので、お金もたくさん使う羽目になる。社会にとっては経済が回ることになるので、国民にはエゴイストをやらせておくほうが都合がいいのだ。エゴイストは、資本主義社会のかっこうのカモになる。はやく飢えて、はやく飽きて、はやく腹が減ってくれる方が儲かるからだ。
その結果が資源の貪り、人工の激増、そこから間違いなく到来するであろう資源の枯渇である。最初に欲望は悪ではない、と言ったが、貪ることには問題がある。その貪りをするのがエゴである。
まさに創世記で人間をそそのかしたヘビ、すなわちサタンの目録通り、事は進んでいる。相変わらず、人類は知恵の木の実の影響を受け続けている。
”生命の木の実”を食べればいいのかもしれないが、それはエデンにある。
エデンに戻るには自ら回転する剣、諸刃の剣に切り刻まれる必要がある。
楽園追放の際、アダムが戻ってこれないように、神が設置したものだ。
これは”死”という通過儀礼を意味している。
ー人がエゴイストであり続けるワケ-
人がエゴに居座り続ける最大の原因は、エゴから離れている状態---そのときに得られる、心の静けさや充足感の喜びを知らないからだと思う。
要は瞑想状態を知らない、ということ。思考がもたらす、統合の高揚感や達成感などしか知らないためだと思う。
常づね、国が教育の中に瞑想を盛り込まない理由を私は不思議に思っていたが、それも前述の通り”国民が欲望や刺激に振り回されたほうが、経済が回る”からだ(これは私の勝手な憶測。おそらく政府も自分らが何者なのかわかってない連中だらけだろう。奴らはただの税金亡者である)
つまりエゴイストは国からも推奨されているということ。エゴイストは国にとっても、利用しやすい税金カモなのである。国がやっていることを見れば、国民はただの税金奴隷だという事実はわかるはず。
ならば、エゴなんていう自分ではない、ちっぽけななんだかよくわからないものに、いつまでも振り回されるより、さっさと自分の本質に気づき、その生を謳歌するほうがなんぼもいいではないだろうか?
とくに若者は注意が必要だ。
若いときはエネルギーが有り余っており、いくらでも無駄なものに費やせるが、必ず、老いはやってくる。そのときに後悔しても、遅いかもしれない。
最後に・・
テレビやネットにたくさんいる、善人の皮をかぶった連中には気をつけるといい。彼らは言葉巧みにあなたをいつまでも、エゴに居座り続けさせようとする。彼らが欲しいのは金とか名誉とか、そういうものだけだ。
地球や自然、他の生き物の都合など、知ったことではないのだろう。
自分のことしか考えないエゴの特性がよく現れている。
”思考に同化したあなた”ではなく、”あなたがあなた自身に戻ることを助けてくれる人、もしくはモノ”に注意を向けることを私は勧めたい。
世の中にはたくさんの技術がある。
だが、その中で何が…誰があなたを本質へ戻してくれるのか、は誰にもわからない。それはあなたが求めれば、待ってました!と言わんばかりに向こうからやってくるはず。
追求をやめさえしなければ、それはすぐに見つかる。