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お堀からラブソング(途中)
それは鱗だった。
官庁に必要な書類を急ぎ取りに行く帰り、歩道に落ちていたそれは、手の平の半分ほどの大きさがあった。プラスチックのプレートと言われれば納得するような、作り物のような見た目だった。でもよく見ると細かく波状の年輪のようなものがあり、表面は虹色に鈍く光った。拾って鼻を近付けてみたが、土っぽい清潔なにおいしかしない。娘のおもちゃになるかもしれない。ビジネスバッグにしまった。
社内の打ち合わせを半ば強引に切り上げて、もんやりとした空気の地下鉄と、小走りの道行に汗ばみながら帰宅すると、風呂場にいる妻と娘の声が二重、三重にもなって廊下に響いていた。ドアが開いた音に気付いた娘が、全裸で玄関の方に駆けてくる。まだ体も髪もびしょびしょに濡れている。
「ぱぱー」
「もー。いつもこの時間はお風呂に入れてるの知ってるでしょ? 少しずらして帰ってきてって、前も言ったよね」
バスタオルを体に、ハンドタオルを頭に巻いた妻は額に血管を浮かせている。
「でも、髪の毛乾かしたりとか手伝えるし……」
妻は僕の言葉に取り合わず、背を向けてれいなの体を拭き、てきぱきと下着やパジャマを着せていく。れいなは僕の方を気にしてちらちらと笑顔を向けてくれるが、それが着替えには邪魔らしく、妻はその度にれいなの体を向き直らせている。
ーーほら、こうなるから。あなたが帰ってくると興奮して、寝かしつけに時間がかかるの。
そんなようなことを、前にも言われたことをぼんやり思い出した。僕は仕方なくワイシャツを脱ぎ、スラックスをハンガーに掛けた。自分だけ夕食を食べるのも居心地が悪いが、食べないでいても「片付かない」と言われる。今日はミートソースパスタらしい。キッチンにはミートソースの鍋だけがあったので、別の鍋に水を入れて火を点けた。湯はなかなか沸かない。洗面所から聞こえてくる甲高い声の合唱をぼんやり聞いている。
共働きで、お互いフルタイム。子どもが出来た時は、育児は折半してやっていこうと話をした。でも今のところ、うまくいっているとは言い難い。僕は出張が多く、保育園の送り迎えは妻任せだ。……いや、はじまりはそこではないのは分かっている。
赤ん坊をどう扱っていいか分からなかった。案外鋭い爪で手を引っかかれてうめいたら、「伸びてるみたいだから切って」と小さいはさみを渡された。こんなおもちゃみたいな、紙より薄い小さな爪を、どこからどう切るんだろうと手が止まった。大きなため息とともに、「もういい」と言われた。全部そんな調子だった。僕の後に子供ができた後輩が、さくっと育休を上司に申請していて、うちの会社も取れるのかと初めて知った。制度は知っていたが、男で取るなんてと思っていた。
妻も、娘も、そこにいるのに、二人はどんどん遠く、どんどん知らない人に組み変わっていってしまう。いや違う。娘の輪郭は最初からとらえられていない。それを妻は「その気がないから」と言うのだった。否定はできないけれど、肯定したくもない。でも、実際妻の言う通りなのかもしれない。育休中、堪忍袋の緒が切れた妻に言われた。
「いつまでも新人バイトのつもりでいないでよ」
そんなつもりはなかったけれど、乳と肉の関わりの中に入り込めない、入り込もうとして尻込みしているのは事実だった。
寝かしつけに被らないように、明日に回してもいい仕事を前倒しした帰り道、拾った鱗のことを思い出した。それは、れいなに見せるタイミングを失って、まだビジネスバッグの底にあった。くるんでいたハンカチはほどけてバッグの隅でくしゃくしゃになっていた。夜空にかざすと、鱗の年輪が月の光を細かく刻んで小さなきらめきに変え、平板なところは不透明な光を放っていた。お堀を半周して、ひとつ先の駅から地下鉄に乗ろうと決めた。どうせ早い帰宅は求められていない。堀の水は川や海と違って生臭いのかもしれないけれど、なんとなく水辺に行きたかった。
水を抜いて外来生物を駆逐したとか、珍しい鳥が飛来したとかでたびたび話題になる城のお堀だけれど、夜は人影もなく静かだった。たまに、上下ビビッドでスタイリッシュなウェアを身にまとったランナーが、ある人は風を切る速さで、別の人はコマ送りのように、歩いている僕を追い抜いていく。
お堀には柵が巡らされていて、すぐ脇は遊歩道になっている。その外側には車道がぴたりと寄り添い、車道を挟んだ向こう側には昔ながらの住宅街や低いビルが並んでいる。最上階にだけ明かりのついているビルが目に入った。その部署で残業している人は、もう夜食を食べたのだろうか、それともお腹を空かせているのだろうか。中にいるのは独身女性かもしれないのに、自分と似た、三十代の男が机にかじりついているのを想像してしまう。そちらはどうですか、家族とうまくやれていますか。やっぱりうまくいきませんか? もしうまくやれてるなら、コツを教えてもらえませんか。でも、そのコツが、うちの家の不協和音を解きほぐすタクトにはならないですよね。
どうも今日は疲れている。そこだけ煌々と明るい自販機に吸い寄せられるように、ビタミンC入りの炭酸飲料を買って飲んだ。喉を弾く泡と酸味が、つかの間、空っぽの胸を満たし、すぐに流れ落ちていった。
ばしゃん
お堀から思いの外大きな音がするので振り向くと、街灯の光だけでも判別できるほどの大きな魚が、水面近くを泳いでいるのが分かった。ぞくぞくした。ここの魚を捕ってはいけないことになっているし、第一釣り竿も持っていないけれど、どれくらいの大物だろう。これだけ大きいということは、きっとこの鱗の持ち主に違いない。水面を凝視していると、何か丸いものが浮き上がって来た。それはもやもやと広がる海藻のようなものを一緒に水面に押し上げた。
……人? こんな時間に?
僕は水面が揺らいだあたりを目を凝らして見てみたが、一度盛り上がった水面はすっと平らになり、その後しばらく待ってみても、風を受けて表面が細かく靡く他は平らかなままだった。闇に沈んだ柱時計は午後九時を指していた。「帰って来るのが遅すぎる」と怒る妻の顔が浮かんで、僕はお堀を後にした。
翌日は、長らく実施されていなかった歓送迎会だった。妻は僕の出席を渋ったが、来年は異動の可能性が高いし、中堅社員として流石に出ない訳にも行かなかった。早く帰ってくるなと言うくせに、飲み会には行かせたくないなんて矛盾している。妻の会社で飲み会があったら行ってきていいと言うと、「そういう話じゃない」と言われた。
それでも一次会で引き上げることにした。一次会は会社から補助が出るけど、二次会は全額実費だからとか、今日はまだ木曜日で、明日も仕事があるからとか、今月の成績がイマイチだから上司に絡まれるだろうとか、色々理由はあったけれど、本当はお堀のことが気になったのだ。
繁華街からどんどん北へ、北へ。光る看板の数が減り、車の赤いテールランプがまばらになり、自分の足音の軽いざりざりという音が段々大きく感じられる。湯気の立っていそうな熱い頭が、人気のない城下のしんとした空気に冷やされていく。日中晴れて暖かかったせいか、昨日より少しだけ魚のにおいが濃い。僕は、地下鉄の駅に向かう分かれ道を逸れてさらに堀沿いの歩道を歩き、東屋風のベンチに座った。十分ほど待っただろうか。昨日とほぼ同じ場所の水面がすうっと盛り上がった。白金色の冴え冴えとした肌に、淡緑色の目。人魚だった。彼女の髪は月の光を受けてキラキラと光って、美しかった。
驚くことすら忘れて茫然と見とれていると、僕の視線に気付いた彼女は波しぶきを立てて柵のギリギリにまで泳ぎ来た。
「あなた、昨日も居たでしょう」
「あ、はい……」
「こんなところで油を売っていないで、人間の住むところに帰りなさい。あなたにもうちがあるでしょう」
僕はまるで叱られて、家を追い出された子供みたいじゃないか。もう三十六なのに。酔いのせいか、僕の目から涙が出て、止まらなくなった。
「あらいやだ。人間は嫌いだけど、泣く人間はもっと嫌いだわ」
人魚は鼻をつまみ、露骨に嫌な顔をした。せっかくのいい月夜が台無しよ。さっさとどこかに行って。
惨めな気持ちだった。地下鉄出入り口そばのコンビニに寄って、少し赤くなってしまった目元を冷まさなければならなかった。
翌日、あんなことを言われたのに、僕はまたお堀に向かっていた。本を殆ど読まない僕は、スタバで時間を潰せるタイプでもないし、この際、二駅分歩くのを習慣にしてもよいと思ったのだ。大体、昨日のことは酔いが起こした幻覚、あるいは白昼夢……いや、夜中の夢かもしれなかった。ままならなさを忘れたくて呷った酒は、今日の昼前まで僕の頭と胃をキリキリと絞り上げていた。
「やっぱり来たわね」
昨日の人魚は僕を見るなりこう言った。昨日よりずいぶん早い時間に来たのは、人魚に逢わないようにしたかったというのも大きかったのに、彼女は僕に用があるようだった。
「私の鱗、持ってるでしょ。返して」
「ああ……あれ、君のだったの」
相変らずビジネスバッグの中に入っていたそれを堀に向かって投げると、鱗は小さく白く光りながら水面に落ちていった。右に逸れた鱗を泳いでキャッチした彼女は、堀の水面より少し高くなった、鳥が足場として利用するような、一.五メートル四方の正四角の台に腰を掛け、人間でいう太ももの脇にあたる場所に、鱗をぐいと入れ込んだ。
「本当は、こんな鱗要らないのに。重くて、泳ぐのにも向かないんだから」
立ち去ればいいのか、向こうが何か反応するのを待てばいいのか分からずに、歩道に立ちすくんでいると、人魚が僕の足元にまで泳ぎ来た。鱗を付け直した所が痛むのか、庇いながら泳いでいるようで波の形が妙だった。
「捨てずに取っておいてくれてありがとう。多分あなたがここに来たのは、鱗が呼んだんだと思う。もうそういうことはないと思うから」
「鱗、要らなかったんですか」
「そう、私はね。でも、皆ないと大騒ぎするから」
彼女の薄緑色のひとみが、闇の中ではらりと光った。
「……大変なんですね」
「そうね。窮屈よ」
彼女は他にも何か物言いたげだったが、それだけ言うと口を固く閉じて俯いた。深く暗い沈黙。僕はもうどんな声も掛けられないと思った。何も言わないのもおさまりが悪いから、「じゃあ、失礼します」と小さく言ってその場を後にした。もちろん相手からの反応はなかった。
昨日入ったコンビニの前で立ち止まる。軽い喉の渇きは癒したいが、レジの店員に、「泣いていた人がまた来た」と思われたくなくて迷った。かなり皺の寄ったスーツ姿の男が吸っている煙草の臭いが、風に乗ってこちらに流れてくるので、それを少しでもよけるために顔を元来た方に向けた。
「ん?」
エメラルドグリーン色の屋根をたたえた名古屋城は、夜間、城の足元から強烈なライトを当てられていて、夜空に城が頭一つ浮いたようになる。城の直下は桜をはじめとする様々な木が植えられていて暗いし、ここは坂を下ったところだから、軽く見上げるような形になるのだが、その頂きに載せているはずの鯱が一つ見当たらない。
人魚と話したせいで、僕の目が狂ってしまったのだろうか。僕は目を凝らして城の頂を確認したが、南側の鯱があったはずの場所にはやっぱり何もなかった。屋根は平らな稜線が続き、端まで行ったところでふつりと途切れていた。
家に着くと、妻と娘は寝室に入ったのか姿が見えなかった。リビングは電気もテレビも点けっぱなしになっていて、テレビは夜のニュースを流していた。
「金鯱のお腹部分をご覧ください。鱗が取れているのがお分かり頂けますでしょうか? 屋根付近に誰かが侵入した形跡はなく、いつからこのような状態になったのかは不明とのことです」
この街のシンボルに起こった一大事を、ショートカットの女性キャスターが淡々と読み上げていた。
翌日は終日内勤の日だった。顧客に渡すプレゼン資料の最終チェックをしていると、パーティションの上から部長が顔を出した。無言で首を斜め後ろにくいっと向ける時は、何か特別な話がある時だった。この間、僕のクライアントとの間にそこそこ大きめなトラブルが起こったので、これからそのことを叱責されるのだろう。僕が全面的に悪いわけではないが、回避しようと思えば出来たかもしれないトラブルだ。「子供が小さいから、大変だとは思うが、仕事は仕事だ」なんて言われるのだろうか。言い訳はしないつもりだけれど、言い訳できるような働きが家で出来ているとも言いがたい。部長の肩が左右に揺れるのを見ながら、動揺を顔の皮の下に押し込む。
「単刀直入に言おう。君に本社転勤の話が出ている」
部長の口から出たのは予想もしていなかった話だった。叱責されるよりもどうしていいか分からない話だ。「はあ」という言葉しか出ない僕を見て、驚くのももっともだという様子で部長は顔を軽く俯けた。
「部署は同じ設計部だが、グループリーダー職を担ってもらいたいそうだ。このところ東京で受注が伸びていて、どうしても人が欲しいらしい。ただ、ずっと行ったきりという訳ではなくて、最大三年だそうだ」
「そうですか……」
「君が以前から転勤は望まないと申告していることを伝えたんだが、一度本人に聞いて欲しいと食い下がられてね。どうする? やはりやんわり断っておこうか」
「……いえ、少し考えさせてください」
家のことを考えるなら、すぐに断るべきだったけれど、僕の口からは別の言葉が出ていた。こういう話は、一旦は引き取って検討したフリをするものだ。だけど、処世術以上に、断るのは惜しいという欲が出た。
「おお、そうか。じゃあ一週間後、もう一度話を聞こう。」
部長は、ボールを僕に渡したのでホッとしたらしい。これで離婚問題に発展したら責任感じるから、じっくり話し合ってくれと茶目っ気ある風に言った。最近は妻と雑談する余裕すらないのに、この話を切り出す勇気が出るとは思えなかった。そんな風なのに、この話を保留にした自分は不可解だった。
その夜、妻からフルタイムに戻りたいという話を聞いた。女性活躍プロジェクトのために、妻のいる部署から昇格者を出す必要があり、対象になり得る者が妻とあと一人ぐらいしかいないから、ということだった。
「私としてはれいなが小学校に上がったら、と思っていたんだけど」
まだ打診の段階のはずなのだが、妻は帰り道で昇格要件の一つ、TOEICの点数を上げるためにテキストを買ってきたという。そう、妻はいつもこんな調子だ。「来年昇格しなくても、再来年は必ずそうなるだろうし、無駄にはならないから」なんて言っているけれど、はなから僕の意見を聞くつもりなどないのだ。もっとも、僕に妻のキャリアについて意見する権利などないとは分かっているけれど。
いつもなら、自分の話は引っ込めてしまうところだった。
「実は僕の方にも、転勤の話が出ているんだけど」
真新しいテキストをパラパラとめくっていた妻の手が止まり、目にさっと怒りの色が差して、一瞬で消えた。
「そう。……やり方を考えないといけないわね」
妻はうっちゃっていた食器をわざとガチャガチャ言わせながら重ねて持ち上げ、キッチンに向かった。ふきんでテーブルを拭こうと妻の後を追ったが、「やるから触らないで」と制された。
昨日は結局、妻とそれ以上会話ができなかった。一通りの家事を終えた妻はテキストを持ってすぐに寝室に引っ込んでしまったからだ。僕は随分遅くなってから、つまり妻が完全に寝てしまっているだろう時間にようやく寝室に入った。テキストは枕元にきちんと積んであって、寝室で読んだのかどうかは良く分からなかった。寝ていても眉根を寄せたままの妻の顔は、もしかしたら年相応以上に老けてしまっているのかもしれない。暗くて陰影が深いせいで特にそう見えるのだろうけれど、自分のことを棚上げして思う。女らしいと思っていた黒いロングヘアは、子供が生まれる前にバッサリ切って、今は長くても肩につかないくらいにしかしていない。
翌朝、起きて一瞬で昨日のことを思い出し、重たい胃を抱えてリビングに向かうと、妻の発するオーラに想像したほどの厳しさはなかった。
だからといって、僕に怒っていないかどうかは分からない。朝はれいなにいかに早く朝ご飯を食べてもらうか、着替えてもらうかが大事で、妻のピリピリ度合いは普段と見分けがつかないというだけだったからだ。いつも自分の分担になっている水筒の準備をした。「それも私がやるから」と言われなかったことに変にホッとしながら、自分の分のパンをトースターに入れる。パンが焼ける間に可燃ごみを一階の集積場まで出しに行って部屋に戻ると、妻はもうスーツを着て玄関で靴を履いていた。
「今日は早く出るから、れいなをお願い」
聞いてないよと言おうと思ったけれど、そう言う間もなくバタバタと出て行ってしまう。本当は昨晩言うはずだったんだろう、仕方ないと、心に湧き上がる炎をぐいぐいと押し付ける。少なくとも、れいなには関係のない話なのだから。
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