どういう文章が読まれ、評価されるのか

 たまに過去記事にスキが付くと、ついその記事を読み直しにいってしまう。最近読まれたのはある本の書評だったのだけれど、自分で言うのもなんだけど、今のような力の抜けた内容・文章と違って、その本の良さや、自分が考えたことをしっかり伝えようとしていることが伝わってくる、重量感のある記事だった。書評・読書記録はnoteの中で需要のあるジャンルらしいのだが、そういう傾向があるのだとしても、この記事が今でもよくスキを貰っているのは納得だった。

 私は当時みたいに、もっと力を入れてnoteを書くべきだろうか。書評にせよ、創作にせよ。しばらくの間はそういう姿勢でnoteに向き合えないし、向き合わない方が良いように思って、ゆるい日記ばかり書いている。どうせ創作を書かないなら、noteを他者との交流の場として活用したっていいはずだが、それもしていない。少し前なら、「いつも本気を出す練習をしていないと、ずっと本気を出せなくなってしまう」と自分を鼓舞していたが、そうできない、いや、しようとしていない自分がいる。

 冒頭の書評記事のように評価に納得できるものがある一方で、「私は会心の出来だと思っていたが酷評されるもの」や、「私がそれほど良いと思っていないのに評価が高いもの」がままある。これは自分が書いたものに限らず、自分が読者だった場合もある。


 どうしてああいう評価をされたんだろうと考えていた出来事がある。その評価を受け止められないのは自分が未熟なせいだとか、いやいや、あれは正当な評価ではなかったから受け止められなくても仕方がないなどと、終わったことなのにたまに振り返って考えてしまう自分が嫌だった。

 しかし、冒頭の記事を読み直してみて、また、最近見聞きした幾つかのことを踏まえて私が思ったのは、(記事の)評価にはそれなりの理由があるし、中央値から外れた評価は捨て置いて良いということだった。そして、ことSNSにおいては、評価者と評価される人との人間関係の濃さが評価にかなり影響すると、改めて実感したのだった。私がある評価を「受け止めにくい」と感じていた時、私はその評価をした人に対しても受け止めにくさを感じていたのだろう。そして評価をした人も、私に対して普段からそれほど良く思っていなかったのが、評価に出たのだろうと思う。

 今、私が文章を書く場はnoteの他にもあって、その場の中の一つに講座があるのだけれど、講座の先生は、さすがという指摘をしてくださる。指摘の文言そのものが美しいのだ。それはお金を払っているという責任があるからだろうし、先生の中に、巧拙関係なく、創作する人に対する尊敬があるからだろうと思う(いやらしいことを言うと、実際、耳に心地のよい評価をしてくださっているからだというのも大きいだろうけれど……)。

 公募を出すのをやり切れないと思うのは、(ある程度選考が進むまでは)落とすことを目的として読まれる点で、それは私の文章を少し穿った見方でふるい落とされるからだと思っていた。しかし近しい人こそ評価が揺らぐのなら、むしろ選考においては、応募作の内容以上には私の為人が出ていないのだと考えた方がよいようだ。自分の競争相手である他の応募者で、何度も応募している人は下読みの人の覚えも良く、下駄をはかせてもらえる(逆に、「この人ならもっとやれるはず」とハードルが上がる)こともあるのかもしれないけれど。また、文章の巧拙や描いているテーマによって、私の人間性のいやらしさが透けて見え、その結果落とされる可能性だってある訳だけれど。

 だからなんだという話なのだけど、ずっともやもやしていたことに自分なりに落としどころがつけられたので書き記しておく。落としどころがつけられたとしても、心には跡が残ったままで、その傷跡は私の視界に度々入ってきてしまい、呆けたりしない限りなかったことにはならない。私はこの中古の心と経歴のままでやっていかなければならなくて、劇的な改善は望めないけれど、それでも私は講座への提出をスピードアップさせるし、賞を獲って私が見たかった景色をきっと見る。

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紅茶と蜂蜜
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