
noteどうするの日記
このところ、腑抜けのような記事しか書けないでいた。対面で人と話す時程度の注意しか払っていないぐだぐだな文章だ。でもそれには訳があって、きちんと体裁を整えた、起承転結があるような文章を書くと、色々な欲が付随してしまいそうだったので、本当に毒にも薬にもならない、私の生存報告程度の情報しかないものを書き繋ぐことしか出来なかったのである。
というわけで、これからどうするんだろうね、という日記を書いてみることにする。note相互さんが似たような話題を書かれていたので真似っこしているようで気恥ずかしいけれど。
noteをどう運用していくか問題は何度も私の頭にもたげてくるテーマだったけれど、昨年秋頃までは今から思うとかなり熱心にnoteに取り組んでいた。しかし私設・準公設コンテストでぱらぱら賞を頂くことになってから、「じゃあ今度は公式コンテストで賞を獲ろう!」とはならず、「なんかもういいや」ということになったらしい。
そもそも私はnoteのコンテストに批判的で、あれは創作意欲を煽るのにリターンの極めて少ないギャンブルのようなものだ。タグのついた作品を見にいったことは少なくないが、三千件、四千件とある作品の中に、タグをつけて多くの人に見に来てもらうためなのか、明らかにコンテストの趣旨や規約とは異なる記事がどっさりあった。ただの個人的な日記や、noterさんと交流する目的の紹介記事、一人何作も投稿したものに賞を与えられることはないだろうが、それでもこういう人達とも競っていかねばならない場所で見出されるのを待つのは徒労ではないか、と思ったのだった。以前、児童向け作品のコンテストの際、審査員の方が「膨大な作品を読んで心底疲れてしまった時、小学生の手による新鮮なこれに触れて感動した」というコメントを寄せていたことがあったのだけれど、そのコメントに結構絶望したのだ。ああそうか、ここは審査員が作品を読むだけで疲れるような場で、目新しい属性があればそちらに流れていくような場なのだと(そもそも、そんな本音をぶっちゃけてしまう審査員の資質も問題なのだけれど、それはまた別の話である)。
コンテストに応募しないとなると、じゃあなんのためにnoteに創作を書いているのだということに段々なってきた。今はWebに発表していても無償なら公募に応募可の賞もなくはないけれど、多くは未発表作品を求められる。noteで出したものも大幅に加筆・改稿すれば未発表作品と言って差し支えないだろうが、noteで変に発散させると加筆・改稿の情熱も減じてしまって難しいのである。
それに次いで、交流が少ないなりに仲良くさせて頂いていた人達がぽろぽろとnoteから離脱しはじめた。私の記事のコメント欄は今も昔もこんな感じで、私自身他の人に積極的に関わったりコラボしに行ったりしないのだけれど、それでも(勝手に)親近感を抱いていた人のアイコンが見られなくなることが、意欲の減退につながったみたいだった。
結局、創作もエッセイも、note内の人、およびネットに生息する人への仮想親密度がベースの、「サービス」であったらしい。だからnoteそのものや、note内の人全般への親密度が低下すれば、書く気持ちも低下していった。そして書く頻度が下がれば、また更にnoteへの親密度が下がるという悪循環につながっていた。
しかし、創作者たるもの、創作するのにそんなに他者に依存しているべきかという向きはあるだろう。私も内発的動機は大事だと思っているけれど、内発的動機は着火剤のようなもので、それだけでは最初は燃えても後が続かない。ちゃんと薪に火が移って、酸素が供給されなければ。少なくとも人に見られることを前提としているnoteという場所ではそうであるらしい。
一方で、noteで中途半端なクオリティのまま発表し、スキやPVなど一定のアクションを貰ってしまうと、そこである程度満足してしまって、やはり望ましい燃焼は望めないのである。内発的動機をいかに生み出し、それを公募の前段階としての講座や、公募に向けるかが課題だなと思う。
そのプロセスで、noteをどうやって活用していったらいいのか決められずにいるのが、腑抜け記事の排出につながったわけである。たとえば、日々浮かんだ疑問や小さな着想をnoteに書いていく(つまり、もう少しちゃんと練ったエッセイにする)ことも考えたけれど、そこまで書いてしまうとそこで納得して作品にまでならないのである。そう思って口を噤んで、腑抜けエッセイだけ書いていたのだけれど、そうすると日々浮かんだ疑問や小さな着想は前頭前野の森に吸収されて消えてしまうのである。ただ、細い窓を開けておくことは必要かなと思って、腑抜け記事を書いている次第である。
口を噤んでいたのは、粗製乱造するよりは貯蓄して熟成させる方がよいと思ったからなのだけれど、一方で、そうやって書かずにいると徒に技術や体力が低下するだけという意見もあって(粗製乱造に陥ろうとも、書き続けることに意味がある)それも一理あると思うので、迷っている。どちらにせよ、別の何かの目的になってしまうと本末転倒である、ということなのだろう。
リアルの生活でも、色々なことをしっかり考えられる状況ではなかったので、諸々立て直していきたいところである。立て直しの先にどこに向かおうとするのかはまだ決めていないのだけれど。
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